立原城と立原城主についてまとめてみたいと思いますが、かなりの乱文なので上手く説明できないと思います、すみません。
最初に参考文献、次に立原城年表と分かった事を書き記し、最後に所感を述べたいと思います。
☆参考文献☆
・立原村鑑(立原村立原家文書)
・小野岡氏家臣立原家文書
・立原系図(鹿島宗家が所蔵していた物)
・小幡村立原家文書
・下大野村立原家文書
・大宮町立原家文書(顕幹流の嫡流家)
・大野村史
・角川地名辞典
・鹿島町史
・岩手村立原家の口伝
☆立原城、立原城主の歴史☆
・平安後期に平貞盛の四代の孫、平貞近(平太左右衛門)が常陸国鹿島郡中村郷立原に住んで立原を名乗る。
・貞近の孫、近俊(平四郎)が鹿島成幹の五男、久幹(五郎)を婿養子にする。大宮町立原家文書によると立原顕幹(雅楽亮)が立原氏の家祖となっております。この頃に城が築かれたと思われます。
顕幹の子は「太郎(長男)」、久幹の子は「五郎次郎(次男)」「三郎(三男、名字は春秋)」「五郎四郎(四男)」、と言うことは久幹=顕幹なのかもしれません。
領地は立原村文書によると70貫ですが、大宮町立原家文書によると立原村、武井村の一部と林村の一部で計500貫となります。
烟田文書によると立原文幹とありますが、「文」と「久」のくずし字は似ているので読み間違えたのかもしれません。
またこの時期に「立原有幹」が居て、その子供が春秋繁幹(三郎)なので、やはり有幹=久幹なのかもしれません。
・源平合戦の頃、鹿島政幹が源頼朝に加勢するときに「立原四郎」と言う侍が参戦しています。
・源平合戦頃もしくは少し経った頃、那珂郡岩手にとある立原氏が土着します。草分けとのことで、落武者の可能性大。と言うことは立原本家は源氏に加勢し、その立原氏は平家に加勢したのでしょうか。とにかくかなり早い時期に立原城を出た立原氏がいると思われます。先にも書きましたが、立原久幹をもって立原の名字が出来たと言われますが、もっともっと前から、平貞近より前から人が住んで居たと思います。なので源平合戦の頃の立原氏は久幹と四人の子供合わせた五人と、もとからの立原姓が居たとしてもおかしくないと思います。
・正元(1259~)の頃、同族の行方氏によって立原の地は買領されます。
何代かに渡って行方氏が相続したと思いますが、その後立原氏が買い戻したのかどうか分かりません。とにかく後で述べますがこの頃はまだ大使役といって、鹿島神宮の儀式(祭り?)を勤めていますし、その所在は「鹿島立原」となってます。
・延慶(1308~)の頃、立原貞幹(五郎左衛門)が佐竹氏に立原家としては初めて仕えます。
・元弘(1331~)の頃、立原幹經(右京介)が城を出て大掾氏に仕えます。
・系図から推測しますと、この頃に立原幹堅(傳兵衛)が城を出ます。この頃の城主は立原詮幹(平六)かと思われます。詮幹は幹堅の父です。詮幹には忠幹(六郎)という子供もいます。諱や仮名からして忠幹が嫡流かもしれません。
・大掾氏家臣録、江戸氏家臣録にはこの頃(明徳~応永頃)に立原内記(小幡)、立原玄蕃(外石川)、立原大学(大部)が見られ、鎌倉時代から南北朝時代に多くの立原氏が城を出ていった事が伺えます。
・元中(1384~)鹿島立原が大使役を行った。この頃の城主は詮幹か忠幹かその子供になります。すなわち買領された立原の地でありますが、城には(館、領地)には立原本家が居たことには間違いありません。
・応永23年上杉禅秀の乱により、上杉禅秀方についた立原の地は同族の烟田氏の領地となります。
ここから先は立原氏が立原城や立原の地を納めていた気がする文献は今のところありません。
・だいぶ経って天正時代、
「天正19年、戦場を逃れ浪人、立原は旧館の有し所に依り帰参、一戸を立つ」
とあります。
と言うことは立原館及び立原城(楯の宮も)は廃城されており、この立原氏が再び住み始めたのでしょうか。
・後に戦国末期~江戸時代初めに立原の地は「立原村」となった様です。
☆所感☆
大野村史によると、ここら辺は農業的に儲からない土地の様です。小領主が乱立しており、才能や野望のある武士がここを出て行くのも納得できます。
そして嫡流家は相変わらず行方不明です。
諱や仮名からみるとどの家も違うな~と感じます。また嫡流や宗家を自称する家の系図も様々な矛盾があり、外部からのお墨付きも有りません。水戸藩からお墨付きの小幡立原家は大変な名家でありますが嫡流を名乗っておりません。