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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
2025.06│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R



藤原姓一木
家の家紋は「丸に真向かい月」のようです。
八田知家公のご子孫で立原家に養子入りしたようです。ご子孫は水戸市にお住まいですが一木氏の嫡流かどうかはわかりません。古河市の一木家はルーツは平氏で家紋も違います。別系統です。
藤紋立原家の家紋は下がり藤と月に星ですので、やはり関係はあるのでしょう。

立原村立原家の家紋が「月に星」でしたら、一木家が丸の付いた家紋なのはおかしいです。
おそらくは嫡流一木家は月に星を用いり、立原村立原家は高貴な一木より養子を迎え、一木家本姓である藤原氏の「下がり藤」、一木家の「星」系の紋を用いたのでしょうか。
宍戸氏系列の一木氏のどこかに「丸」のない「真向かい月」があるのかもしれません。
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答えは貴人の家からの養子かと思われます。

先日コメントくださったsuito様の家系調査が一段落して改めて思ったのは「平姓立原家の藤紋」の所以でした。
立原家の家紋で圧倒的に多いのは橘紋ですが、続いて亀甲や藤が多いです。
立原村の字、「館」にお住まいの立原宗家及び周辺立原家も藤紋です。これは一重に室町時代中期に藤原姓宍戸家から養子を入れたからでしょう。
鎌倉時代の立原家は弱小武家かと思います。血筋は良いのですが領地は狭く、貧弱だったと思います。
宗家の鹿島氏に引っ付いていたけれども、南北朝時代の総本家、大掾氏の曖昧な態度に加え、小さな村と痩せた領地にあぶれた分家立原氏は立原村を出て行ったと思われます。
残った立原家は室町時代に宍戸家(一木氏)より養子を迎えた様です。この頃の立原家と宍戸家では武家ランクが大分違うかと思われます。ちなみに出て行った立原家は佐竹氏や江戸氏に仕え、各地で活躍している時です。

そしてその宍戸家一門、一木氏は本姓藤原氏であり家紋は「日月」の様です。
立原村の鎮守神社は日月神社です。立原村立原家の家紋は「下がり藤」と「月に星」です。「月に星」は日月紋と同系列の家紋だと思います。


さて、立原家の家紋の変化と言えば「丸に三盛亀甲花菱」ですが、以前も記しましたがこちらは水戸藩より拝領の紋で間違いありません。
しかし面白いのは、常陸大宮市(本家は水戸市在住)の旧家(郷士)は定紋は亀甲で、替紋は「五本骨扇に月丸」です。
それはすなわち系図によると室町時代に佐竹氏より養子を迎えたからです。その子孫は「立原翠軒」の家系にも繋がる家柄です。しかし立原翠軒の分家、末流の立原家が橘紋を用いてるところから、本来の家紋も残していたのでしょう。
上記の立原顕幹の嫡流家は室町時代までは本姓を「源」としていたそうです。

ということは立原村立原家も「藤原」を意識していたと思います。


では立原総本家はどこに行ったのでしょう?
私も分かりませんが次回に綴りたいと思います。

公表、非公表問わず、図書館、歴史館、国会図書館、私が各立原家様よりご教示いただきました系図等をまとめて立原系図を作っております。
しかしまだ鹿行地域の方々からの情報をいただいておりませんので、まだまだ完成は先です。
日立市諏訪の一族も水戸藩士族の立原家紋を用いておりますが、まだお伺いしておりませんし、以前に拙ブログにコメントくださりました男系立原氏の情報も全くございません。
まだまだ分からない事だらけでございます。
しかしこの大略系図はある程度書いたらお世話になった立原様方にお送りしたいと思います。迷惑かもしれませんが。


小6の息子がお城が好きなもので、よく各地の城跡に出掛けております。
私が以前より立原氏を研究しているのは知っており、「立原城の御城印を作りたい」と言ったら作ってくれました(笑)水戸市飯富の「立原民部の館跡」の御城印も作ってました。
しかし現地の城跡、館跡にお住まいの方に了承を得たわけでは無いので、全くの非公式でございます。欲しい方、無料で差し上げます。

鹿嶋市の方々、鹿嶋市は城跡だらけですので、是非お城PRをしてくださいませ!
「武幹」=「武人たる器量」だそうです。
てっきり「立原武幹」という侍が立原城に立原久幹と同時期に居たのかと思いきや、「久幹武幹アリ」=「久幹は武人たる器量があったよ」って意味でした。
この誤った情報を拙ブログはもとより手紙でも沢山送ってしまった!
申し訳ありませんでした!
以前も書きました七代目立原城主「立原平六、詮幹」の子孫の方からご連絡賜りました。
なんと先代がお亡くなりになられ、家を整理するときに古文書等は捨ててしまったそうです!電話最中にぶっ倒れそうになりました。しかしこのパターンは本当によくあるんです。仕方ないことです。もっと多いのは焼失でしょうか。
しかしありがたいことにこちらの一族のご由緒は墓地の石碑に刻まれております。以前ご参拝したときは雨で上手く撮影が出来なかったのですが、次回は晴れの日に伺いバッチリ撮影したいと思います!

新編常陸国史には立原について七代記しております。中世の立原にも様々な系図がありますが、水戸藩よりお墨付きの立原系図はこちらの様です。故にウィキペディアでもこの系図が紹介されています。
立原の地は元は立原氏の物だった様ですが、鎌倉時代に同族の常陸平氏の行方氏が立原領地を買ったり、禅秀の乱(1416年)の後には同族の烟田氏が支配してます。
ようするに初代と二代目以降の立原の地は、住んでいて立原城を管理してはいるけど、その時の領主に上納金を払っていたのかと私は思います。半分侍半分百姓的な。一応は鹿島六頭の一角との情報もありますので、本家の鹿島氏及び鹿島神宮にも貢いでいたのでしょうか?
そして記されている最後の城主の立原詮幹。その子供や子孫が気になります。詮幹の時代は南北朝時代と察することができます。ちょうどこの頃に他の立原系図でも立原城を出ていく人が見られます。
立原詮幹の子供の一人は後の小幡立原の祖となる人もいます。
そしてこの度ぶったまげる系図を発見いたしました。立原詮幹の子孫で中世鹿島地区に残った立原氏の系図です。筋で言ったら嫡流ですね。かなりの名家の家柄と存じます。
しかしまだ当主の方にアポがとれていませんので公開は控えたいと思います。




全世界で立原姓が一番多い地域は水戸市飯島です。一族の共同墓地は二ヶ所あり、どちらも根無橘と根有橘が見られますが一方は根無が多く、一方は根有が多かったりします。
どちらも中世からの系図は無いようですが、根有の一族には常陸江戸氏家臣の「立原雅楽允」の記録があります。
そして先日読みました郷土史には戦国期に飯島を納めていた江戸氏家臣の家臣に「立原主水」がいたそうです。
これで飯島の立原家が二系統なのも納得です。

私の調査にご協力くださいました水戸市飯島のとある立原様がお亡くなりになられておりました。墓地調査のおり気付きました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
私がもう50年早く生まれていたら、立原の歴史について沢山語り合えた事でしょう。

Wikipedia
にも記載されております由緒正しき秋田藩士立原家の嫡流の方とお電話にてお話することができました。
とても親切な御方でして、色々とご教示賜りました。心より感謝申し上げます。
残念なことに古文書等は戦災により焼失してしまったそうです。また、子孫諸々の方々はご先祖様に興味が全く無いそうです。
幕末から明治初期に立原家の本末を明らかにしようとご活動していたこちらの当時の当主、立原政蔵さんの意思は私が受け継がせていただきます。頑張ります!
と、言いましても郊外の旧家や城下の家々も火災、戦災、子孫がポイしちゃう、プライバシー云々等、立原家調査は私の世代でラストチャンスかと思われます。

次回はまだ解明されていない立原家々の謎を書きたいと思います。

(家紋ドットネット様より引用)

立原政蔵家の家紋は「橘」
丸が無く、京都からやって来た主流の橘とも違うデザインであります。相当古い家柄です。と言いますか、850年位続いてる家柄でして、常陸平氏立原家の中でも超特別です。

立原甚蔵家の家紋は「五木瓜釘貫」でした。ビックリです。恐らくはルーツである茨城県立原家のどの家紋にもない家紋です。佐竹氏からの拝領紋でしょうか?それとも茨城県にもこの紋を用いる立原家があったのでしょうか?
実は茨城県立原家の家紋に三盛亀甲花菱がありますがこちらは水戸藩より拝領です。小幡立原家はこちらの紋を拝領する前の家紋は伝わっていないようです。しかし小幡立原家の全件調査をしたわけではないのでもしかしたら室町期以前の紋が分かるかもしれません。

家紋は違えど家祖は同じと言う事がありますが、すなわち鎌倉時代の武家に家紋ブームが訪れた時に、同じ名字であっても既に分家していたり、住んでいる所が違ったりするんでしょうね。立原家の家祖と言われている立原久幹、立原顕幹、その他にもいますがその頃はまだ武士や軍事貴族等に家紋ブームは来てないと思います。


立原富忠家と立原源之助家はまだ未確認であります。

さてさて、これにて秋田藩立原家のネタはとりあえず終了いたします。
これで今あるネタはすっからかんです。しばらくブログは書きません。
明日から「立原政蔵家」と「立原甚蔵家」のご子孫の方々にお手紙をお出ししたいと思います。
何で子孫の住所が分かるんだ?と思われるると思いますが、探偵も雇ってませんし、お寺の方にも聞いてません。今はプライバシーが厳しくてお寺もピリピリしております。ただ、ヒントが落ちていたので私なりに解釈し、ご子孫の住んでいる所を割り出しました。
今月以降はこちらの2家にお手紙をすることに集中いたします。
また面白い情報がありましたらアップしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

立原家の歴史を後世に残していきましょう。
秋田藩立原家は幕末期に四家あったそうです。
①立原富忠家
②立原政蔵家
③立原甚蔵家
④立原源之助家

①と②は佐竹氏国替えの時に茨城より秋田に来た、間違いなく旧臣でしょう。
しかし③と④は全くわかりません。
もしくは①と③が私の解釈の逆かもしれません。
ようするに「立原富忠」=旧臣「立原富敬」の嫡流子孫と位置付けるのはまだ早いかもしれません。

④に関しては全く情報がなく、困っております。
②に関しましては明治初期の当主の「立原政蔵」氏が沢山情報を残してくださったのでよく分かります。

続く
秋田藩は久保田藩とも云うそうです。私は秋田藩で書かせていただきます。

もともと秋田の立原は有名でして、Wikipediaにも項目にあります。しかし由緒は様々でして、まるっきり分からない家系もあります。
一番有名なのはWikipediaにもありますように佐竹氏の転封の後に追いかけ移住した佐竹氏家臣「立原富敬」の家です。
系図持たずに移住したためか、本姓(源平藤橘等)は不詳とのこと。

もう一家有名なのは佐竹氏重臣の小野岡氏の家臣、立原家です。
佐竹氏転封と共に秋田に移住しました。
こちらは本姓は「平」、本紋は「立花(丸無しの橘)」、替紋は「蝶(平氏の家紋)」、代々の諱は「幹(大掾一族の証)」とあり、立原家の総本家、総嫡流と言っても過言ではない家柄です。

そしてもう二軒、秋田藩士の立原家があることに「秋田県文書館」のデジタルコンテンツで分かりました。
秋田県藩士の明治以降の家臣録がありまして、そちらに士分の者、足軽の者が記されております。

続く
大変残念でありますが、ハローページのサービスは終わってしまいました。
携帯電話の普及、プライバシーの観念から無用の長物となってしまいました。
私の立原調査で参考にしておりますアプリはハローページを元に作られております。
このアプリには感謝してます。地域ごとの立原家が年代別に記されるので、地域ごとの本家を調べるの活用いたしました。それに加えグーグルマップの衛星写真でお目当ての立原家の家や土地を拝見いたしますと…なんとなく勘で「ここは旧家だな」「ここが本家だろうな」などと推測しておりました。
しかし旧家であっても本家の定義は難しく、江戸期から明治期にかけて様々なストーリーがあり、土地があるからといって本家かといえばそんなことはなく、本末の財力が入れ替わるのはよくあることです。


(国立国会図書館デジタルより引用)

この内容にはたまげました。

鹿嶋六郎宗幹の次男↓(え?)

立原次郎有幹の三男↓(え?誰?)

春秋三郎繁幹


たしか新編常陸国誌によりますと繁幹は立原盛幹の弟であり立原久幹の子。有幹=久幹でしょうか?しかし鹿嶋氏の次男の次郎って無理があるように思えます。

でも改めて考え直すと私は王道である大掾系図の鹿嶋、立原を中心に考えてしまいますが、ここまで様々な系図を拝見いたしますと、もはやわかりませんね。その時の権力の都合でしょうか?
江戸時代中期に立原翆軒は大掾系図を立原氏の正統な系図と選んだと思われます。立原翆軒は立原村に行って系図を写したそうですが、立原村の系図は水戸藩内では公表されてないと思いますし、立原村系図が明るみになったのは明治期に立原平四郎の公表によるものです。そもそも立原翆軒の家は立原顕幹流の分流だという系図もあります。

さて、いったいどの立原系図が正しいと思いますか?
私は全て正しいと解釈して調査しております。そもそも縄文時代からおそらく立原の地名はあり、そこに立原久幹や、常陸平氏が住み着く前から人は住んでいたはずです。立原は久幹が住む前からいっぱい居たと私は思います。まだ名字の概念は無かったかも知れませんが「おらは立原だ!」という人は居たのではないでしょうか。



びっくりしました。てっきり橘だと思っていたので墓前に行って驚いてしまいました。

佐竹氏領の立原家も江戸氏領の立原家もほとんど「橘」でした。しかし水戸藩士墓地の一軒と、水戸市鯉淵町の数軒、水戸市千波町の数軒が「上がり藤」と言うことは常陸武将の江戸氏家臣もしくは領民にも藤紋の立原は居たのでしょう。

はたして上がり藤紋立原家のルーツはどちらなのでしょうか?
やはり立原村(立原城跡)の立原家が「下がり藤」でありますのでそちらがルーツでしょうか?
しかし一つ謎が在りますも
鯉淵と千波には丸無しの上がり藤なんです。
そして立原村の立原家は丸有の上がりと下がりの藤紋でした。

私が知るどの個人所有の立原系図にも記されておりませんし、大掾系図にも、立原村鑑にも、鹿嶋総本家の立原系図にも詳しいことは記されておりません。しかし家紋は真実を隠しているように私は思います。

(国立国会図書館より引用)

まず上記の画像でありますが、上の画像は大掾氏の研究のあれこれで40年位前の内容かと思います。立原マニアの私としましては秋田立原系図と小幡立原系図ですね。

下の画像は江戸時代の物で
今年の目標はズバリ茨城県立原家へのお手紙コンプリートです。
といいましても水戸市の中心部を除いた各地域の立原家です。
残るは…
北茨城市(丸三足橘)
高萩市(丸橘)
日立市諏訪(丸三盛亀甲花菱東平)
水戸市高野(丸二足橘)
水戸市栗崎(丸三盛亀甲花菱)
鹿嶋市立原(丸下がり藤、丸上がり藤)
鹿嶋市棚木(丸下がり藤)
鹿嶋市の南の地域(丸茗荷、丸梅)
鹿嶋市の中心部(?)
潮来市(丸桔梗、丸剣方喰)
行方市(二つ巴)

一ヶ月につき一地域にお手紙はなかなかの激務でありますが、急がないと物知りの古老が旅立ってしまいます。
マイナー武家である「立原氏」を調べ、きちんと後生に残せるのは今がラストチャンスかと思います。
古文書は捨てられ、古老はいなくなり言い伝えは途絶え、固定電話が無くなり電話帳が無くなり、多くの分流立原家は自分がどこから来たのか分からなくなるのは間違いありません。
そもそも立原姓のルーツは平、源、藤原があるそうなので、家紋である程度分かればいいなと思います。

※画像の書は友達の作品です。

前回の続きです。

以前伺いました高萩市のとあるお寺に再度調査をしに行きました。
こちらのお寺に行く前に共同墓地にもお寺にもリベンジ調査をしており、立原姓の墓地は無く残念な気持ちでありましたが、とうとう発見いたしました!お寺付属の墓地を突っ切り山の方へと行きますと林の中へと行けました。少し進みますと旧家と思われます墓石があちらこちらに見受けられ、立原家のお墓も発見できました。
丸橘でありまして、遠い遠い先祖は同じだったのでしょう。
たしか高萩市のこちらの地域の戦国時代以前は「大塚氏」が有名だったと思います。
佐竹旧臣録には大塚氏の家臣に立原氏がいますので、そちらの末裔なのかなとワクワクしながらご参拝させていただきました。

次にお伺いしましたのは水戸市飯富であります。
こちらも再度調査でして、墓地の場所も分かりますし、本家筋の方ともお手紙にて連絡しております。
飯富の立原氏は戦国時代以前より知られており、ある系図によれば立原顕幹の流れとなります。
飯富立原氏は1400年代には江戸氏の旧臣録に記載されており、茨城郡立原家の中ではかなり古く由緒ある家柄なのかと推測できます。
そして改めて共同墓地の墓石を確認いたしましたところ前回見過ごしていた家紋を沢山発見いたしました。
こちら飯富調査で確信しましたのが茨城郡、那珂郡各村の立原氏紋所の規則性…
本家→丸菊座(根)橘
分家?→久世橘、丸橘

しかし水戸市下大野の様にオリジナル橘紋を江戸時代に用いていた旧家もあるので、本当のところはまだまだ分かりません。

※画像の書は友達の作品です。

昔の人はほとんどが寺に墓を置かず、裏山だったり自宅の後ろだったりするみたいですね。
ちなみに遺体を埋める所と、石を置いてお参りする所は違うそうです。

もちろん茨城県の立原家もそんな感じです。

先日調査及びご参拝いたしました城里町の墓地は、グーグルマップですと林の中で見えないのですが、うっすらとお墓のシルエットが…一か八かで訪れてみますと、ございました。丸橘でありまして、茨城郡那珂郡の立原家と同族かと思われます。

その後伺いましたのは常陸大宮市の部垂周辺です。この地域は戦国時代の資料に沢山の立原の名前が残っております。
部垂地域には立原顕幹(平氏)を家祖とする一族と立原清行(藤原氏)を家祖とする一族がいる筈なんです。
大宮周辺の立原家は亀甲紋(水戸徳川家より拝領)を用いており、立原顕幹流の末裔だと思われます。
大宮より少し離れた辰ノ口地域に三つ巴紋が見受けられ、この度発見しましたのは大宮のすぐとなりの泉地域も三つ巴紋でした。こちらを探すのは本当に苦労しました。
巴紋の立原家が立原清行の子孫とは断定できませんが、橘紋立原家とはルーツは違うのかもしれません。それを確かめるには同じ巴紋を用いる行方郡立原家にお伺いしてようやく分かるのかもしれません。

常陸大宮市の調査を終えたあと、前回収穫ゼロの高萩市にリベンジ調査に行きました。

続く
とても親切にしていただきまして、最高の一時を過ごさせていただきました。
さて、プライバシーに関わる事ですので詳細は控えます。
ざっくりと差し支えのない程度に調査報告いたします。
まず、この度お会いしました立原家の方々は下郷地区の立原家の総本家です。
同じ地域の立原家が数件ありますがこちらの分流となります。
遺伝子的にはとある大名の子孫でして、江戸時代後期に両親を亡くし、水戸から来た立原氏の養子となり今に至るそうです。
ざっくりとしかお伝えできませんが、メチャクチャ面白い歴史でして、お伝えできなくて残念です。
この下郷調査で立原氏家紋について一つ確信いたしました。
茨城県の茨城郡、那珂郡地域(大掾氏、江戸氏の支配地域)の江戸時代後期から明治時代においての立原家の橘紋は
本家→丸菊座橘、丸菊座根橘
分家→丸久世橘、丸橘、丸三足橘
で、間違いありません。
丸無し家紋の古くからの家柄の立原家は秋田県におりますが、それも明治時代の事でして、今は子孫がどこに居るかはわかりません。
また、常陸に残った嫡流筋及び名家の立原家は水戸藩より『三盛亀甲』紋を拝領し、以前の家紋は分からないと思われます。
江戸時代期の橘紋の立原氏紋所の規則性から考慮するに、立原宗家は丸無しの菊座根橘もしくは菊座橘を用いていたのでしょうか?
秋田県に行って墓石調査をするしかありませんね。

平安後期の創成期から南北朝時代までの期間は、立原一族はまだ立原城内(立原村)に多くは住んでいたと思われます。
もちろん早々に出ていった分流もいることでしょうけど、今のところ分かりません。


立原太郎の系図

立原五郎次郎の系図

立原(春秋)三郎の系図

立原五郎四郎の系図

嫡流は次郎の様でして、本宗家の大掾系図にも記されており、代々「幹」を名乗っております。

私が気付いたのは、立原城内に住んでいる時の分家は「幹」の名付けを避けているように思えます。しかし城を出た後に「幹」を名乗り、世襲する家がありました。

立原城を出るタイミングは南北朝期と上杉禅秀の乱の時期に見られます。本宗家の大掾氏の方向がぶれまくっていた時期です。
私が持っている資料によりますとこの頃に城を出て佐竹氏に仕えたもの、大掾氏に仕えたもの等が見られます。

本家鹿島氏に仕えた立原家も、想像ではありますが沢山いたと思います。
しかしそもそも立原地区に居続けた立原家は鹿島氏とはルーツが違い、「平貞盛」がルーツの様です。
常陸平氏のルーツは「平繁盛」でして貞盛の弟。

だから貞盛流立原家と繁盛流立原家で家紋がまったく違うのかな?と思いました。
前回の記事に『太郎』の前後には輩行名は付かないと書きましたが、普通に立原系図におりました。見落としておりました。
『五郎太』『五郎太郎』等々。
前回からの続きです。
茨城町小幡には二回ほどお伺いしましたが、この度はネットでお店を商っている立原様がいらっしゃるとのことを知り、フラりと立ち寄らせていただきました。

買い物をしながらサラリとお店の方に『小幡の立原家の嫡家はどちらでしょうか?』と普通じゃあり得ない失礼な質問をしますと、大変ご親切にご教示くださいました。
プライバシーに関わることなので詳しく記すことはできませんが、小幡立原の素晴らしい由緒をお聞きすることができました。
とても親切にしていただきまして、心より感謝いたします。

お墓にもご参拝させていただき(今回で三回目)、あらためて気付いた事、以前は見過ごして分からなかったことも分かってきました。
とにかく墓石に刻まれた名には本姓の『平』や常陸大掾一門の証である諱の『幹』が各墓石に刻まれており、やはり立原五郎平久幹の嫡流はここなんだろうなぁ、と、思いました。

後日書こうかと思いますが、嫡流、本家、総本家等同じようでちょっと違う感じを書きたいと思います。
あわせて家祖『立原五郎平久幹』と家祖『立原雅楽亮平顕幹』のダブル家祖について気付いた事があるので書かせていただきます。

常陸大掾伝記を読んでいましたら、気になる文章に目が止まりました。
漢文はほとんど読めないので、ヤフー知恵袋にて質問させていただきました。

後日、安藤氏家臣、村上氏の系図を探してみたいと思います。
とある立原様の墓地にお伺いいたしました。
いつもはこっそりご参拝するのですが、その家の方の了承済なので堂々とご参拝させていただきました。
以前下郷にお伺いしたときにはこちらの墓地には気付かずにスルーしてしまいました。

あれれ?丸に菊座橘でありました。
下郷立原家はその他の立原家の紋所から察するに『丸に久世橘』が本来かと思っておりましたが、今回の旧家の古いお墓には菊座があしらっておりました。

さて、江戸期にデザインチェンジしたのか、そもそもルーツが異なるのか、それとも近代になり、あらためたのか、まだまだわからないことだらけです。
とにかく下郷立原家に関して推測できることは、恐らくは小田氏、及びその分家武将の支配地であるため、その家臣もしくは領民だったのでしょう。

下郷の調査を終え、私は茨城町小幡に向かうことにしました。

続く
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