
(国立国会図書館より引用)
まず上記の画像でありますが、上の画像は大掾氏の研究のあれこれで40年位前の内容かと思います。立原マニアの私としましては秋田立原系図と小幡立原系図ですね。
下の画像は江戸時代の物で
「本朝武家諸姓分脈系図」
というそうです。
秋田立原系図ですね。
家祖の「久幹」の次に「盛朝」がくるのが秋田立原系図。ですが本当は「盛朝」は「盛幹」の書き誤りではないかと思います。逆に家祖の久幹にとって息子達に「五郎次郎(もしくは四郎五郎)、盛幹」「三郎、繁幹(春秋氏の祖)」「五郎四郎、盛朝」と、幹と朝、読みは「もりもと」「もりとも」、こんなややこしいネーミングするのでしょうか?
恐らくではありますが、本朝武家諸姓分脈系図を編纂した方は不明でありますが、江戸の武家に片っ端から聞きまくったのではないかと思っちゃいます。秋田立原も江戸に居た時期があるはずです。
嫡子、庶子のネーミングの規則性を考慮いたしますと、やはり小幡立原が嫡流の通称と諱なんですよね。鹿嶋氏家臣立原村立原家も、佐竹氏家臣立原家も、江戸氏家臣立原家も、顕幹流立原家も、どこか遠慮した…といいますか「我こそは嫡流なり!」という書き方をしてないように感じます。
鹿嶋に仕えた立原では俺が一番
佐竹に仕えた立原では俺が一番
江戸に仕えた立原では俺が一番
的な系図に感じました。
しかし小幡立原の「平六、詮幹」がいつも引っかかります。なぜ「平六」なのか。立原嫡流なら五郎か太郎に「小」「又」「弥」等を付けるべきではないのでしょうか?しかもその子の名は…諱に「幹」はついているもの、嫡流的なネーミングではないように感じました。
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