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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
2025.06│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R

立原城と立原城主についてまとめてみたいと思いますが、かなりの乱文なので上手く説明できないと思います、すみません。


最初に参考文献、次に立原城年表と分かった事を書き記し、最後に所感を述べたいと思います。



☆参考文献☆

・立原村鑑(立原村立原家文書)

・小野岡氏家臣立原家文書

・立原系図(鹿島宗家が所蔵していた物)

・小幡村立原家文書

・下大野村立原家文書

・大宮町立原家文書(顕幹流の嫡流家)

・大野村史

・角川地名辞典

・鹿島町史

・岩手村立原家の口伝




☆立原城、立原城主の歴史☆


・平安後期に平貞盛の四代の孫、平貞近(平太左右衛門)が常陸国鹿島郡中村郷立原に住んで立原を名乗る。


・貞近の孫、近俊(平四郎)が鹿島成幹の五男、久幹(五郎)を婿養子にする。大宮町立原家文書によると立原顕幹(雅楽亮)が立原氏の家祖となっております。この頃に城が築かれたと思われます。

顕幹の子は「太郎(長男)」、久幹の子は「五郎次郎(次男)」「三郎(三男、名字は春秋)」「五郎四郎(四男)」、と言うことは久幹=顕幹なのかもしれません。

領地は立原村文書によると70貫ですが、大宮町立原家文書によると立原村、武井村の一部と林村の一部で計500貫となります。

烟田文書によると立原文幹とありますが、「文」と「久」のくずし字は似ているので読み間違えたのかもしれません。

またこの時期に「立原有幹」が居て、その子供が春秋繁幹(三郎)なので、やはり有幹=久幹なのかもしれません。


・源平合戦の頃、鹿島政幹が源頼朝に加勢するときに「立原四郎」と言う侍が参戦しています。

・源平合戦頃もしくは少し経った頃、那珂郡岩手にとある立原氏が土着します。草分けとのことで、落武者の可能性大。と言うことは立原本家は源氏に加勢し、その立原氏は平家に加勢したのでしょうか。とにかくかなり早い時期に立原城を出た立原氏がいると思われます。先にも書きましたが、立原久幹をもって立原の名字が出来たと言われますが、もっともっと前から、平貞近より前から人が住んで居たと思います。なので源平合戦の頃の立原氏は久幹と四人の子供合わせた五人と、もとからの立原姓が居たとしてもおかしくないと思います。


・正元(1259~)の頃、同族の行方氏によって立原の地は買領されます。

何代かに渡って行方氏が相続したと思いますが、その後立原氏が買い戻したのかどうか分かりません。とにかく後で述べますがこの頃はまだ大使役といって、鹿島神宮の儀式(祭り?)を勤めていますし、その所在は「鹿島立原」となってます。


・延慶(1308~)の頃、立原貞幹(五郎左衛門)が佐竹氏に立原家としては初めて仕えます。


・元弘(1331~)の頃、立原幹經(右京介)が城を出て大掾氏に仕えます。


・系図から推測しますと、この頃に立原幹堅(傳兵衛)が城を出ます。この頃の城主は立原詮幹(平六)かと思われます。詮幹は幹堅の父です。詮幹には忠幹(六郎)という子供もいます。諱や仮名からして忠幹が嫡流かもしれません。


・大掾氏家臣録、江戸氏家臣録にはこの頃(明徳~応永頃)に立原内記(小幡)、立原玄蕃(外石川)、立原大学(大部)が見られ、鎌倉時代から南北朝時代に多くの立原氏が城を出ていった事が伺えます。


・元中(1384~)鹿島立原が大使役を行った。この頃の城主は詮幹か忠幹かその子供になります。すなわち買領された立原の地でありますが、城には(館、領地)には立原本家が居たことには間違いありません。


・応永23年上杉禅秀の乱により、上杉禅秀方についた立原の地は同族の烟田氏の領地となります。

ここから先は立原氏が立原城や立原の地を納めていた気がする文献は今のところありません。


・だいぶ経って天正時代、

「天正19年、戦場を逃れ浪人、立原は旧館の有し所に依り帰参、一戸を立つ」

とあります。

と言うことは立原館及び立原城(楯の宮も)は廃城されており、この立原氏が再び住み始めたのでしょうか。


・後に戦国末期~江戸時代初めに立原の地は「立原村」となった様です。



☆所感☆

大野村史によると、ここら辺は農業的に儲からない土地の様です。小領主が乱立しており、才能や野望のある武士がここを出て行くのも納得できます。

そして嫡流家は相変わらず行方不明です。

諱や仮名からみるとどの家も違うな~と感じます。また嫡流や宗家を自称する家の系図も様々な矛盾があり、外部からのお墨付きも有りません。水戸藩からお墨付きの小幡立原家は大変な名家でありますが嫡流を名乗っておりません。



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茨城県歴史ファンでしたら常陸平氏の鹿嶋氏はご存知かと思います。その鹿嶋氏総本家が茨城県立歴史館に「立原系図」を寄贈してます。
恐らくは鹿嶋氏に仕えた立原家の中で一番エリートか旧家だったのでしょう。しかしそこで思うのが立原村の立原総本家こそ立原姓の鹿嶋氏家臣の筆頭ではなかったのか?と感じます。
その系図の嫡流家は名字を変えてます。
弟や親戚は討死したり立原村の百姓となっております。
嫡子の弟は旧館の有るところに依る、とありますがそれが立原村なのか鹿島神宮周辺なのか分かりません。
もしですよ、旧館が立原村の立原城(館)ですとかなり問題です。
ここら辺の真相は鹿嶋市立原家の全世帯に質問をしてから考えたいと思います。

鹿嶋氏家臣、立原将常(室町中期~後期)
常直
常治
①直政、②常成、③常?(読めませんでした)
①常知②常助
①常章
①常満(帰農)②常隆(帰農)


鹿嶋市は謎でいっぱいです。
終了といいますか、全然調査が足りてないので後日きちんと調べてからまた書きたいと思います。
まだお手紙(アンケート入り)も送って無く、現地調査と図書館(デジタル)調査しかしておりません。
真実は口伝や、蔵の中に有ったりするものだと私は思っております。

鹿嶋市立原家でまた何か新しい情報が入りましたら書かせていただきます。

とりあえず次回は
「私の立原家」

「ハローページ終了」
について書きます。
立原城跡、立原村の方々と棚木村の方々は
「丸に下がり藤」
でして、一軒だけ
「丸に上がり藤」
でした。

鹿嶋市の中心地の宮中は
「丸に橘」
でした。

立原村は鹿島神宮に近いですが、鹿島神宮に仕えた立原家は橘紋。

橘紋立原家は茨城県に多く見られますが、藤紋立原家は少なく、立原村、棚木、水戸市鯉淵、水戸市千波、水戸藩士墓地、にて見受けられました。

これは
藤紋=平貞盛流立原家
橘紋=平繁盛流(大掾一族)立原家
なのかもしれません。

しかし謎なのが千波と鯉淵は確か丸無しの家紋でした。
丸無し家紋は旧家中の旧家です。
立原村や近所の棚木が丸有りの藤紋なのは不思議です。何か理由があるのかウッカリなのか。


(国立国会図書館デジタルより引用)

通説で言えば立原家は
平貞盛の弟の平繁盛の嫡流の多気氏の分家、吉田氏からの更に分家の鹿嶋成幹の五男が立原五郎となったとされています。
しかし、立原総本家系図によりますと、平貞盛の子孫が立原を名乗り、繁盛流の鹿嶋久幹(立原五郎)を婿養子にしたとあります。そして通説の系図では久幹→盛幹→兼幹→重幹と続きますが総本家系図ですと久幹→盛幹→近忠→近清となります。
もちろん秋田立原系図も立原顕幹流系図も異なります。ただ、私が言ってきました「小幡立原が嫡流説」の理由は諱に「幹」を気れ目なく襲名し、通称は「五郎」を基準としながら嫡子ならではの名付け「太、小」等が用いられてるからです。それに小幡立原は水戸藩から最も認められてたと思われます。

しかし立原総本家はそもそも襲名している諱は「幹」ではありません。「近」「貞」「俊」が見受けられます。通称は「四郎」を大切にしてるようです。

ここで立原アイデンティティーは二つに別れると思いました。
貞盛流の立原氏嫡流は間違いなく立原総本家です。
しかしそこで一つ気になる事が出てきました。

続く

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)

この方がいなければ立原家の歴史は謎のまま闇に消えて行った事でしょう。
立原平四郎氏は立原村本家、立原氏総本家であり、その歴史と系図、古文書を惜しみなく公表してくださいました。今、私がこうして立原家調査が出来ているの、平四郎氏のお陰といっても過言ではありません。

立原氏の創成期を調べる上で避けては通れない家々は
☆鹿嶋旧臣立原村立原家
☆佐竹家臣秋田藩士立原家
☆佐竹旧臣大宮郷士立原家
☆江戸旧臣小幡郷士立原家

こちらの家々にはそれぞれの歴史があり、数多の分家を出してきました。

まずは立原村から書きたいと思います。こちらは立原平四郎氏のお陰で系図の99%が公表されております。
次回より立原平四郎氏が公表してくれた「立原家の由緒」を私なりに綴らせていただきます。
詳しくは国立国会図書館デジタルアーカイブで「立原平四郎略伝」と調べてみてください。
もう一つは「立原村鑑」
こちらは東京大学図書館に原本が有り、茨城県立歴史館に写しがあります。
立原村鑑には立原平四郎氏と秋田藩士立原政蔵氏のお手紙の内容の一部が見れます。
800年の時を越え、同族同姓であるのに主のために殺しあった侍の子孫が明治期にお手紙で再開しているのです。ロマンチックです。

次回は立原平四郎氏が伝えた系図について考えたいと思います。

最も
知られている立原氏の系図は大掾系図と常陸国誌に記載されているものだと思います。Wikipediaにもそれが載っています。
しかしこの二つを見比べると大掾系図の立原は六代、常陸国誌の立原は七代記されており、常陸国誌の方の六代目が大掾系図の方には載ってません。
①久幹(五郎)

②盛幹(五郎次郎)

③兼幹(小五郎)

④重幹(五郎太)

⑤武幹(小平太)

⑥詮幹(平六)
もしくは
⑥定幹(平太)

⑦詮幹(平六)

憶測でありますが定幹(平太)と詮幹(平六)は兄弟だったんじゃないかと推測してます。
詮幹は息子と共に立原城を出ていきます。南北朝時代の事です。宗家の大掾氏も本家の鹿島氏も悩みに悩んでいた南北事情ですので、分流の立原家も北朝についた者、南朝についた者等、各立原家の系図にも見受けられます。
何より詮幹の子孫の立原家文書を拝見いたしますと初代久幹より七代の孫が詮幹の子の様なので、やはり詮幹と定幹は兄弟のような気がします。
大掾氏家臣となった立原家ゆえに、大掾系図には六代を記し、大掾家にとっての立原は詮幹の子孫で、兄弟の定幹は記されないのでしょうか。
そういえば詮幹の子孫の立原家は江戸時代に水戸藩より優遇されておりましたが、全立原氏の嫡流を名乗っておりません。
ちなみに墓石や文書で嫡流を記載している立原氏は、
茨城町長岡
水戸市(顕幹流)
鹿嶋市小字立原(平貞盛の子孫)

ということは六代定幹(平太)の子孫は長岡か?
しかしこちらにはお手紙をしましたが返答無しでありまして真相は闇です。

ちなみに嫡流の通称に使われる名前は
『◯太』
『◯◯太』
『太郎◯◯』
『小◯◯』
『弥◯◯』
『又◯◯』
等あるそうで、やはり南北朝時代で代々嫡流ネームの立原家が突然
平六が嫡流とは疑問がわいてきます。

久しぶりに昔に集めた資料を見ていると、当時は気付かなかった事が現在では気付けたりします。

まず驚きましたことは、幕末から明治初期にかけての立原村の村長さん、及びその後周辺の村々と合併しできた和村の戸長の「立原平四郎」さんの茨城県人名録の記述を読んだ時です。
人名録の記載によりますと、立原村の立原家は平貞盛の子孫であり、定説である家祖「立原五郎平久幹」は養子であるとのこと。
常陸大掾一族はもとより立原氏も「平貞盛」の弟「平繁盛」の子が貞盛の養子となり、その子孫が常陸平氏となったのである。しかし貞盛の直系が常陸に残り、鹿島郡の立原の地に根付いていたとしてもおかしくは無いです。

大掾系図の立原家と立原村鑑の立原家は初代とされる「久幹」二代目「盛幹」までは同じですが、そのあとが別の系統となります。諱や通称の規則性も違い、家紋も違います。

どちらの系統も違った立場の「嫡流」だと思いました。
大掾系図の立原家は大掾一族の証である「幹」の字を代々諱に襲名し、鹿島氏、大掾氏、江戸氏、徳川家に仕えたのだと思われます。大掾系図にも記載されておりますし、正真正銘の立原ではないでしょうか。

立原村の立原系図は、久幹が来る前の諱や通称を意識しており、系図から察するに「本当の立原は自分達だ」と伝えているのでしょう。

まだまだ謎だらけで、初代からの系図では「顕幹流」や久幹の子「盛朝流」等あります。


さて、立原村に関しまして謎がありまして、立原村鑑の系図の立原家と、鹿島郡常陸平氏の総本家である鹿島宗家が茨城県立歴史館に寄贈した立原系図では名前が全く一致しません。

立原村には下がり藤と上がり藤があります。何か意味があるのでしょうか?お隣の村、棚木村の立原家も下がり藤です。
しかし遠く離れた茨城郡鯉淵村は上がり藤です。

何かありそうですね、ワクワクします。

日本史に詳しい方でしたら知っていると思いますが、どうやら鎌倉時代や室町時代は長男相続ではなく、能力や実力により次男以下も相続できるようです。
加えて思いますのが嫡流=土地の相続、が絶対ではないと素人知識でありますがそう思います。

立原城にも色々あったようで、家を興した創成期から室町中期にかけて立原各家の系図を照らし会わしますと、矛盾や謎が見られます。

『立原』と言えばどの文献にも家祖は『五郎、久幹』とあります。ちなみに烟田文書には『文幹、五郎』とありましたが『久』と『文』の書き間違えか読み間違えではないでしょうか。烟田氏は常陸平氏で、茨城県ではちょっと有名な武将です。


私が謎に思うのがもう一人の家祖『立原雅楽亮平顕幹』の事です。
こちらを祖とする家は沢山ありますし、子孫が戦国時代や江戸時代に最も栄えた立原一族と言っても過言ではありません。
しかしどの文献にも『顕幹』の名は見られません。
しかし顕幹を久幹と同一人物と過程しますと一つだけスッキリすることがあります。両人の息子達の名前です。

立原太郎(顕幹の子)
立原五郎次郎(久幹の子)※嫡流(大掾系図ですと)
春秋三郎(久幹の子)
立原五郎四郎(久幹の子)

同じ村や城で同じ名字で『太郎』は一人しか名乗れないはずです。
立原家祖として通説の久幹ですが子に太郎がいないのは不思議です。しかも所領を継いだのは『五郎次郎、盛幹』です。
と考えると顕幹と久幹は同一人物であり、何かの書き誤りや読み間違え、伝え間違えなのかと思いました。
もしくは同一人物だとしても『太郎家』と『次郎家』に分かれ、系図によりますと『太郎家』の末裔に『立原玄番』が居り、同じ武士か分かりませんが大掾旧臣録にはひたちなか市のある土地を知行しているようです。その系図の玄番は旧臣録の玄番と同じ時代なので同一人物かと思いたいです。
同じ頃『五郎次郎家』の子孫は小幡を知行しています。と言いたいところですがこの情報はあくまで系図と大掾氏や江戸氏の旧臣録を参考にしただけで確かでありません。

後日、この顕幹久幹について明治初期に交わされた秋田県士族立原政蔵氏と立原村村長立原平四郎氏の手紙を元に書かせていただきたいと思います。

ちなみに『五郎次郎』とか『次郎三郎』というのは五郎の次男とか、次郎の三男という意味らしいです。立原家の系図を見る限りはこういう名前は鎌倉初期に流行ったのかな?と思います。その後は官職の名前が多いみたいです。

そう言えば『太郎』には名前の前にも後ろにも順番的な名前がくっついているのは見たことありません。やはり太郎は特別なのでしょうか。
明治時代以前では非公開系図だったと思いますので、詳細を省き、家祖名のみを記しました。嫡流家のみ、インターネット公開されておりますので記しました。
私は立原家を調べまくっているゆえに思うのですが、本末の争いは総本家嫡流家が誰とかではなく明治江戸時代の村単位で行われているように感じます。
やはり土地やそれに準ずる身分に関わることでしょうか。
まず佐竹氏家臣『立原雅禾介』は『立原雅楽介』ですね。
情報元も『禾』だったので崩し字を見誤ったのでしょう。
立原雅楽介は戦国時代の立原家の中ではダントツのエリート侍だったのかと思われます。
時代によっては雅楽介の名前を世襲してたり、親戚が使っていたりするのでいっぱいいます。

二つ目に江戸氏旧臣録の『立原大学』は小幡村を領してると記されておりますが、本当は大部村です。情報元でも大部村とありますので、ただたんにミスったのでしょう。大部村は今の水戸市飯富になります。
小幡村を領してたのは『立原内記』です。
鹿嶋市史によると
「立原氏の所領没収は『禅秀の乱(1416年頃)』の後で、烟田氏の物になったのに、立原村立原文書によると天正期となっている。なんで?」
とあります。

私が参考にしたのは「大掾系図」に記載されている城主立原氏の末裔、小幡村立原家の文書(東京大学図書館に有り、それと現当主様保有の文書)と、
「立原村艦系譜全(東京大学図書館)」です。
すなわち立原村に平安後期よりずっと居る立原家の文書。
それと名字辞典(古い本)。

そもそも立原村や立原という地は鎌倉時代に行方氏(立原氏の親戚《大先輩》)が領していたり、「禅秀の乱」以降は烟田氏(立原氏の親戚《兄貴分》)が領してたりと、立原宗家が領地としていたのは立原城(館)とその周辺なのかと推測しました。
立原宗家は常陸平氏の本宗家大掾氏と共に上杉禅秀方に付きました。
後に立原城に住み着いた立原家は代々鹿島氏(鹿島氏は公方)の家臣のようです。

運命は分かれ、立原宗家は城を追い出され後に江戸氏の家臣となりました。
鹿島氏家臣立原家が立原館を引き継いだけど、立原地区の領地は烟田氏に配分されたのでしょうか。
その後も立原村立原家は天正後期まで鹿島氏に仕えます。

一つ謎なのが立原村文書(系図)と鹿島宗家が茨城県歴史館に寄贈した文書(立原系図)の名前が全くあいません

もしかしたら村住まいの立原家は農業を営み、分家等を鹿島氏に仕えさせたのかと思いました。
しかしそれなら立原村本家の系図に「この頃に分家した奴等が鹿島に行って侍をしてるよ」っていう事が記されているはずなのですが、残念ながら記されておりませんでした。
とにかく後日お手紙をお出ししてお伺いしたいと思います。

先祖の建前とは違う情報が現代の当主や分家の方々から教えていただけるものです。

超貴重な文書を拝見いたしました。

私のように全国各地の立原家に手紙を出し、由緒や系図を教えてもらっている方が明治初期にもいたようです。

秋田の士族で、家紋は丸の無い『立花』。だいたい丸があるのは分家やお洒落かと思われますので、立花(橘)紋の立原家の宗家かと思います。

茨城の旧家エリート立原家の立原村、大宮町、野上村、小幡村、水戸や東京住まいの士族立原家とやりとりをしていたようです。

何せ私はくずし字が読めないので、少しだけくずしてる今回の優しい文書もほぼ読めません。しかしマニアックな立原家ワードから察するにこの方が調査をしていて、当時の立原村の村長に手紙を送った内容かと拝察いたしました。
鎌倉時代、室町前期でいえば家紋別であったんじゃないかと思います。
平安時代後期に立原村及び立原城、立原館等と呼ばれる所へ平久幹やその兄弟、家来が移り住みます。元からそこにいる人達ももちろん居たでしょう。
250年位住んでいたっぽいです。
橘紋立原家はその間の分家だと思います。まだまだ研究不足ですが橘紋立原家の確認できる由緒書きには禅秀の乱(立原城等の領地没収となった戦)以前に皆佐竹氏や大掾氏に仕えてるみたいです。
逆に三盛亀甲立原家は禅秀の乱まで立原城&村に居て、後に江戸氏や佐竹氏に仕えてます。
この三盛亀甲立原家はよく知られているのが郷士が二家、立原翠軒等で知られている一家、すなわちエリート立原家。
しかし総本家は藤紋でありまして、まだ確認はとれてないのですが恐らく、領地没収→烟田氏&江戸氏に仕える、もしくは総本家立原にとっての総本家、鹿島氏やそれまた総本家大掾氏に仕えたりしたのでしょうか?
何はともあれ天正期の佐竹氏による大掾一門皆殺しにより下野したそうです。

歴代城主の系図の最後の城主『詮幹』の子の名前が記されているのは私が確認できる限りでは水戸藩郷士(小幡)だけです。
もしかしたら総本家立原家にも痺れるような系図があるのかもしれません。

もしくは部垂立原家のように『平久幹』を祖としない系図があったりするのでしょうか?
わくわくが止まりませんね!
名字で立原さんは5000人程いるそうです。
立原氏でよく知られているのが桓武平氏、続いて出雲地方の源氏、帰化エリート朝鮮民族の立原氏、少数ですが藤原氏を祖とする立原氏もいるそうです。

私は主に桓武平氏の立原氏を綴らせて頂きたいと思います。