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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
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プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
鎌倉時代、室町前期でいえば家紋別であったんじゃないかと思います。
平安時代後期に立原村及び立原城、立原館等と呼ばれる所へ平久幹やその兄弟、家来が移り住みます。元からそこにいる人達ももちろん居たでしょう。
250年位住んでいたっぽいです。
橘紋立原家はその間の分家だと思います。まだまだ研究不足ですが橘紋立原家の確認できる由緒書きには禅秀の乱(立原城等の領地没収となった戦)以前に皆佐竹氏や大掾氏に仕えてるみたいです。
逆に三盛亀甲立原家は禅秀の乱まで立原城&村に居て、後に江戸氏や佐竹氏に仕えてます。
この三盛亀甲立原家はよく知られているのが郷士が二家、立原翠軒等で知られている一家、すなわちエリート立原家。
しかし総本家は藤紋でありまして、まだ確認はとれてないのですが恐らく、領地没収→烟田氏&江戸氏に仕える、もしくは総本家立原にとっての総本家、鹿島氏やそれまた総本家大掾氏に仕えたりしたのでしょうか?
何はともあれ天正期の佐竹氏による大掾一門皆殺しにより下野したそうです。

歴代城主の系図の最後の城主『詮幹』の子の名前が記されているのは私が確認できる限りでは水戸藩郷士(小幡)だけです。
もしかしたら総本家立原家にも痺れるような系図があるのかもしれません。

もしくは部垂立原家のように『平久幹』を祖としない系図があったりするのでしょうか?
わくわくが止まりませんね!
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