茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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P R
鹿嶋市史によると
「立原氏の所領没収は『禅秀の乱(1416年頃)』の後で、烟田氏の物になったのに、立原村立原文書によると天正期となっている。なんで?」
とあります。
私が参考にしたのは「大掾系図」に記載されている城主立原氏の末裔、小幡村立原家の文書(東京大学図書館に有り、それと現当主様保有の文書)と、
「立原村艦系譜全(東京大学図書館)」です。
すなわち立原村に平安後期よりずっと居る立原家の文書。
それと名字辞典(古い本)。
そもそも立原村や立原という地は鎌倉時代に行方氏(立原氏の親戚《大先輩》)が領していたり、「禅秀の乱」以降は烟田氏(立原氏の親戚《兄貴分》)が領してたりと、立原宗家が領地としていたのは立原城(館)とその周辺なのかと推測しました。
立原宗家は常陸平氏の本宗家大掾氏と共に上杉禅秀方に付きました。
後に立原城に住み着いた立原家は代々鹿島氏(鹿島氏は公方)の家臣のようです。
運命は分かれ、立原宗家は城を追い出され後に江戸氏の家臣となりました。
鹿島氏家臣立原家が立原館を引き継いだけど、立原地区の領地は烟田氏に配分されたのでしょうか。
その後も立原村立原家は天正後期まで鹿島氏に仕えます。
一つ謎なのが立原村文書(系図)と鹿島宗家が茨城県歴史館に寄贈した文書(立原系図)の名前が全くあいません
。
もしかしたら村住まいの立原家は農業を営み、分家等を鹿島氏に仕えさせたのかと思いました。
しかしそれなら立原村本家の系図に「この頃に分家した奴等が鹿島に行って侍をしてるよ」っていう事が記されているはずなのですが、残念ながら記されておりませんでした。
とにかく後日お手紙をお出ししてお伺いしたいと思います。
先祖の建前とは違う情報が現代の当主や分家の方々から教えていただけるものです。
「立原氏の所領没収は『禅秀の乱(1416年頃)』の後で、烟田氏の物になったのに、立原村立原文書によると天正期となっている。なんで?」
とあります。
私が参考にしたのは「大掾系図」に記載されている城主立原氏の末裔、小幡村立原家の文書(東京大学図書館に有り、それと現当主様保有の文書)と、
「立原村艦系譜全(東京大学図書館)」です。
すなわち立原村に平安後期よりずっと居る立原家の文書。
それと名字辞典(古い本)。
そもそも立原村や立原という地は鎌倉時代に行方氏(立原氏の親戚《大先輩》)が領していたり、「禅秀の乱」以降は烟田氏(立原氏の親戚《兄貴分》)が領してたりと、立原宗家が領地としていたのは立原城(館)とその周辺なのかと推測しました。
立原宗家は常陸平氏の本宗家大掾氏と共に上杉禅秀方に付きました。
後に立原城に住み着いた立原家は代々鹿島氏(鹿島氏は公方)の家臣のようです。
運命は分かれ、立原宗家は城を追い出され後に江戸氏の家臣となりました。
鹿島氏家臣立原家が立原館を引き継いだけど、立原地区の領地は烟田氏に配分されたのでしょうか。
その後も立原村立原家は天正後期まで鹿島氏に仕えます。
一つ謎なのが立原村文書(系図)と鹿島宗家が茨城県歴史館に寄贈した文書(立原系図)の名前が全くあいません
。
もしかしたら村住まいの立原家は農業を営み、分家等を鹿島氏に仕えさせたのかと思いました。
しかしそれなら立原村本家の系図に「この頃に分家した奴等が鹿島に行って侍をしてるよ」っていう事が記されているはずなのですが、残念ながら記されておりませんでした。
とにかく後日お手紙をお出ししてお伺いしたいと思います。
先祖の建前とは違う情報が現代の当主や分家の方々から教えていただけるものです。
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