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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
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プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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以前、常陸大宮市の郷土史家の方から拝受いたしました昭和の新聞の切れはしに立原家の記事がありまして、とても勉強になる記事で何度も読み返しました。
しかし先日気付きましたのは『立原』の次の項目の『立花』に私が求めていた答えの一つが記載されておりました。

ざっくり説明いたしますと、『橘』という地名や名字は勅命により(たぶん鎌倉時代かな?)名を変え、名字は『椿』、地名は『立花』に変わったそうです。
ということは要するに偉い方々が高貴な『橘』の名を下々が使うな、と命令したということですよね。橘の名字を立花にした人もいたのではないでしょうか。

私の家の墓地の裏には天狗党の立花氏の墓があり、『立花』と彫られておりますが、墓誌等には『橘』と彫られており謎でした。
すなわち名字は『立花』、本姓は『橘』なのでしょう。
また、茨城県の立花姓の墓を何件か見てましたが、家紋は『丸に橘』でした。何でだろう?と思ってましたが、ようするに本流の橘氏の家紋である『橘』に分家のお約束の『丸』を付け『丸に橘』になったのかもと推測できます。

『立花』と言いますとあの有名な戦国武将を思い出しますが、あの方の本姓は藤原氏だった気がします。家紋も違うはずです。

そういえば池坊の家紋もたしか『立花』と云い、『丸に菊座橘』でした。
伊井家と仲良しの日蓮宗の寺紋は『井』の中に『橘』ですが橘のデザインは『根』があったり『久世橘』だったり寺によって色々なのかと思いました。
立原家もしかり、『立花』と記す家もあり、古い墓石はほとんどがノーマル橘紋ではありません。
常陸戦国武将の真壁氏もよくよく調べてみると丸の無い『久世橘』だったりします。

やはり当時の人達は勅命を守り、高貴な『橘』をそのまま名字や家紋や村名に使うのはやめたのでしょうか。
きっと橘氏の嫡流家は丸の無い『橘』紋なのでしょうね。橘寺も橘紋ですし。 
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