茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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立原氏にとっての総本家である大掾氏や本家の鹿島氏は沢山文献が残されているので、何をしていたか結構分かります。しかし立原氏の初期の情報はほとんどなく、各家の系図や言い伝えを参考にさせていただきます。
まずは立原村立原家の家伝によりますと、立原久幹はこの地に住んでいた立原家の娘と結婚して婿入りして、鹿嶋久幹→立原久幹となったそうです。となると初代ではなくなりますが、大掾一族の立原姓初代ってことで考えてます。
70貫の地を領してたようです。武幹があって家声頗る振るう、とあります。こちらの家伝では久幹は「五郎四郎」と名乗っていたそうです。
五郎四郎は普通だと五男の父の四男ということになります。久幹の父、成幹は三男で三郎ですが他の文献や系図によると五男ともあります。
久保田藩の立原系図ですと五郎四郎は久幹の息子、盛朝です。ちなみに通説の二代目は五郎次郎(盛幹)です。立原村の文書ですと二代目盛幹は四郎五郎です。ややこしいですね。はたして盛朝=盛幹でしょうか?五郎四郎=五郎次郎=四郎五郎でしょうか?これは次回考えます。

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
鹿嶋誌によりますと立原四郎という武士が鹿嶋氏と共に出兵したそうですが、この四郎が久幹なのか盛幹なのか盛朝なのかは分かりません。

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
部垂(大宮)の郷士の立原系図によりますと名前は違いますが初代立原氏は500貫を領していたとあります。
時代によって石高や貫高のレートは違いますが、旧和村及び周辺の村々の字とそこの各時代の領主の貫高石高を調べれは大体の貫高は分かるかもしれませんね。
烟田文書によると「文幹」とありますが崩した久の字が文に見間違えたんだと私は思います。
息子が二人いたそうで先ほどの盛幹(五郎次郎)、繁幹(三郎)です。繁幹は春秋の地を貰って春秋氏を名乗ります。しかし春秋氏は違うルーツの文献もありますので今度書きます。
新編常陸国誌によりますと繁幹の子供に久幹がいて、その人が春秋氏になったとありますが、繁幹と久幹を逆に書いてしまったんだと思います。
さて、私が初代立原氏について分かるのはこの程度です。墓が有るのか無いのか、戒名が有るのか無いのかも分かりません。それ故嫡流も分からないわけです。
まずは立原村立原家の家伝によりますと、立原久幹はこの地に住んでいた立原家の娘と結婚して婿入りして、鹿嶋久幹→立原久幹となったそうです。となると初代ではなくなりますが、大掾一族の立原姓初代ってことで考えてます。
70貫の地を領してたようです。武幹があって家声頗る振るう、とあります。こちらの家伝では久幹は「五郎四郎」と名乗っていたそうです。
五郎四郎は普通だと五男の父の四男ということになります。久幹の父、成幹は三男で三郎ですが他の文献や系図によると五男ともあります。
久保田藩の立原系図ですと五郎四郎は久幹の息子、盛朝です。ちなみに通説の二代目は五郎次郎(盛幹)です。立原村の文書ですと二代目盛幹は四郎五郎です。ややこしいですね。はたして盛朝=盛幹でしょうか?五郎四郎=五郎次郎=四郎五郎でしょうか?これは次回考えます。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
鹿嶋誌によりますと立原四郎という武士が鹿嶋氏と共に出兵したそうですが、この四郎が久幹なのか盛幹なのか盛朝なのかは分かりません。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
部垂(大宮)の郷士の立原系図によりますと名前は違いますが初代立原氏は500貫を領していたとあります。
時代によって石高や貫高のレートは違いますが、旧和村及び周辺の村々の字とそこの各時代の領主の貫高石高を調べれは大体の貫高は分かるかもしれませんね。
烟田文書によると「文幹」とありますが崩した久の字が文に見間違えたんだと私は思います。
息子が二人いたそうで先ほどの盛幹(五郎次郎)、繁幹(三郎)です。繁幹は春秋の地を貰って春秋氏を名乗ります。しかし春秋氏は違うルーツの文献もありますので今度書きます。
新編常陸国誌によりますと繁幹の子供に久幹がいて、その人が春秋氏になったとありますが、繁幹と久幹を逆に書いてしまったんだと思います。
さて、私が初代立原氏について分かるのはこの程度です。墓が有るのか無いのか、戒名が有るのか無いのかも分かりません。それ故嫡流も分からないわけです。
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