茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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七代城主の立原詮幹の後の系図は私の知る限りでは茨城町小幡の立原家と柏井の郡司家にしか残っていません。
小幡立原家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原幹堅(傳兵衛)
・
・(数代)
・
立原通幹(式部少輔)
↓
現当主へと続きます。
柏井郡司家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原忠幹(六郎)
↓
立原忠行(七郎)
立原忠能(七郎左衛門)
↓
現当主へと続きます。
さて、どちらが嫡流でしょうか?もしくは他に兄弟がいてそちらが嫡流ってことも有り得ます。しかしそれならば江戸時代に取り上げられているでしょう。
城を出たという記述があるのでおそらく幹堅は江戸氏か大掾氏を頼ったのでしょう。立原家ではもうこの頃は鹿嶋氏から離れ、大掾氏、江戸氏、佐竹氏に仕える者も結構いたみたいです。
もし幹堅が城を出た時期が明徳の頃から上杉禅秀の乱(1416)のタイミングでしたらこの頃小幡村は立原内記という武士が居たと思われます。格式の高い親戚(本家)が頼ってきたらどうでしょうか?もしくは幹堅が上杉禅秀の乱よりずっと前に城を出ていたとしたらどうでしょうか?秋田県士族立原系図によりますと九代目は立原幹盛が佐竹義人に仕えていたようです。佐竹義人は(1400-1468)です。ということは立原本家の七代目詮幹、八代目幹堅や忠幹も立原領地を没収された上杉禅秀の乱より前の人物の可能性が高くなります。
私としては立原幹堅が八代目城主で、禅秀の乱により領地没収され、その後江戸氏家臣立原内記を頼ったとするストーリーが納得いきます。しかし立原幹堅が生きた時代が禅秀の乱よりもっと前ですと、江戸氏家臣立原内記は=立原幹堅の可能性もありますね。ということは立原幹堅は城主及び本家ではないと言うことになります。
ちなみに内記は官職名、幹堅は諱です。
小幡に居た立原氏の子孫は「式部少輔」の官位(武家官位)を用います。この官位は立原氏では一番格式が高いです。
貫高は75貫、同村同姓の伊賀には25貫。この貫高は立原家的に超有名な栗崎立原氏の貫高と同じです。
一方の八代目立原忠幹は鹿嶋の地に残ったと推測できます。孫の立原忠能(七郎左衛門)は鹿嶋氏重臣の松本備前守に仕えていたそうです。
ということは立原家嫡流は立原忠幹の流れかもしれません。鹿嶋の地に残り、鹿嶋氏重臣に仕え、後に笠間藩に仕え、帰農して名字を変えた。
そこで引っ掛かるのは名字を変えた事です。本家嫡流であれば太平の世にわざわざ名字を変えるとは思えません。それに諱や通称の規則性からしてこちらが嫡流とは考えにくいです。
さて、今回も謎のまま終わってしまいまして申し訳ありません。
小幡立原家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原幹堅(傳兵衛)
・
・(数代)
・
立原通幹(式部少輔)
↓
現当主へと続きます。
柏井郡司家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原忠幹(六郎)
↓
立原忠行(七郎)
立原忠能(七郎左衛門)
↓
現当主へと続きます。
さて、どちらが嫡流でしょうか?もしくは他に兄弟がいてそちらが嫡流ってことも有り得ます。しかしそれならば江戸時代に取り上げられているでしょう。
城を出たという記述があるのでおそらく幹堅は江戸氏か大掾氏を頼ったのでしょう。立原家ではもうこの頃は鹿嶋氏から離れ、大掾氏、江戸氏、佐竹氏に仕える者も結構いたみたいです。
もし幹堅が城を出た時期が明徳の頃から上杉禅秀の乱(1416)のタイミングでしたらこの頃小幡村は立原内記という武士が居たと思われます。格式の高い親戚(本家)が頼ってきたらどうでしょうか?もしくは幹堅が上杉禅秀の乱よりずっと前に城を出ていたとしたらどうでしょうか?秋田県士族立原系図によりますと九代目は立原幹盛が佐竹義人に仕えていたようです。佐竹義人は(1400-1468)です。ということは立原本家の七代目詮幹、八代目幹堅や忠幹も立原領地を没収された上杉禅秀の乱より前の人物の可能性が高くなります。
私としては立原幹堅が八代目城主で、禅秀の乱により領地没収され、その後江戸氏家臣立原内記を頼ったとするストーリーが納得いきます。しかし立原幹堅が生きた時代が禅秀の乱よりもっと前ですと、江戸氏家臣立原内記は=立原幹堅の可能性もありますね。ということは立原幹堅は城主及び本家ではないと言うことになります。
ちなみに内記は官職名、幹堅は諱です。
小幡に居た立原氏の子孫は「式部少輔」の官位(武家官位)を用います。この官位は立原氏では一番格式が高いです。
貫高は75貫、同村同姓の伊賀には25貫。この貫高は立原家的に超有名な栗崎立原氏の貫高と同じです。
一方の八代目立原忠幹は鹿嶋の地に残ったと推測できます。孫の立原忠能(七郎左衛門)は鹿嶋氏重臣の松本備前守に仕えていたそうです。
ということは立原家嫡流は立原忠幹の流れかもしれません。鹿嶋の地に残り、鹿嶋氏重臣に仕え、後に笠間藩に仕え、帰農して名字を変えた。
そこで引っ掛かるのは名字を変えた事です。本家嫡流であれば太平の世にわざわざ名字を変えるとは思えません。それに諱や通称の規則性からしてこちらが嫡流とは考えにくいです。
さて、今回も謎のまま終わってしまいまして申し訳ありません。
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