茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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ちなみにですが古代中世には名前の決まりみたいなものがありまして、諱ですと…
久幹、嫡流でしたら、
左の久は親だかお爺さんだか烏帽子親だかが決めたり、偉い人から名前一文字を貰ったりするそうです。右の幹は通字と言って先祖代々や一族で使ったりするそうです。しかし跡継ぎじゃない兄弟は通り字を左につける習慣もあるそうです。
例えば→幹久
とは言ったものの調べてみると左右(先後)に決まりは無いみたいです。しかし偉い人から貰う文字は最初に付けるようになっていったそうです。
常陸平氏の初期は右(後)に通字が圧倒的に多い気がします。
大掾氏は終始通り字は右(後)だった気がします。
通称にもちょっとした法則がありまして、立原嫡流家の三代から七代ですと…
三代目→兼幹(小五郎)←五郎じいさんの嫡孫
四代目→重幹(五郎太)←家祖(五郎)の嫡孫
五代目→武幹(小平太)←嫡男(平は平氏だよってことかな?)
六代目→定幹(平太)←同上
七代目→詮幹(平六)←なぜ六なのか謎です
こんな感じです。
タイトルにはこの城主等について何か分かっているような書き方ですが、こちら方々の情報はほぼありません。
僅かな情報は鹿嶋大使役を元享1年(1321)と至徳1年(1384)立原氏が務めたという事です。
前者ですと5~7代、後者は7代以降だと思われます。
この鹿嶋大使役は應永11年(1404)まで行われており、私の憶測ですが常陸平氏が集まり交流があったに違いありません。故に立原家も七代までは記録に残っているのかもしれません。
そして1416年に上杉禅秀の乱があり、立原嫡家は上杉禅秀に加担し、そして負け、立原の地は行方氏から烟田氏に渡ったのでしょう。
それを機に七代目当主の立原詮幹の息子達は城を出たのだと思います。
ちなみにですが私が調べる限りでは立原の地は農業で大儲けは難しく、出て行った立原氏が土着した農地は立原村よりよっぽど儲かると思います。
久幹、嫡流でしたら、
左の久は親だかお爺さんだか烏帽子親だかが決めたり、偉い人から名前一文字を貰ったりするそうです。右の幹は通字と言って先祖代々や一族で使ったりするそうです。しかし跡継ぎじゃない兄弟は通り字を左につける習慣もあるそうです。
例えば→幹久
とは言ったものの調べてみると左右(先後)に決まりは無いみたいです。しかし偉い人から貰う文字は最初に付けるようになっていったそうです。
常陸平氏の初期は右(後)に通字が圧倒的に多い気がします。
大掾氏は終始通り字は右(後)だった気がします。
通称にもちょっとした法則がありまして、立原嫡流家の三代から七代ですと…
三代目→兼幹(小五郎)←五郎じいさんの嫡孫
四代目→重幹(五郎太)←家祖(五郎)の嫡孫
五代目→武幹(小平太)←嫡男(平は平氏だよってことかな?)
六代目→定幹(平太)←同上
七代目→詮幹(平六)←なぜ六なのか謎です
こんな感じです。
タイトルにはこの城主等について何か分かっているような書き方ですが、こちら方々の情報はほぼありません。
僅かな情報は鹿嶋大使役を元享1年(1321)と至徳1年(1384)立原氏が務めたという事です。
前者ですと5~7代、後者は7代以降だと思われます。
この鹿嶋大使役は應永11年(1404)まで行われており、私の憶測ですが常陸平氏が集まり交流があったに違いありません。故に立原家も七代までは記録に残っているのかもしれません。
そして1416年に上杉禅秀の乱があり、立原嫡家は上杉禅秀に加担し、そして負け、立原の地は行方氏から烟田氏に渡ったのでしょう。
それを機に七代目当主の立原詮幹の息子達は城を出たのだと思います。
ちなみにですが私が調べる限りでは立原の地は農業で大儲けは難しく、出て行った立原氏が土着した農地は立原村よりよっぽど儲かると思います。
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