小幡立原家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原幹堅(傳兵衛)
・
・(数代)
・
立原通幹(式部少輔)
↓
現当主へと続きます。
柏井郡司家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原忠幹(六郎)
↓
立原忠行(七郎)
立原忠能(七郎左衛門)
↓
現当主へと続きます。
さて、どちらが嫡流でしょうか?もしくは他に兄弟がいてそちらが嫡流ってことも有り得ます。しかしそれならば江戸時代に取り上げられているでしょう。
城を出たという記述があるのでおそらく幹堅は江戸氏か大掾氏を頼ったのでしょう。立原家ではもうこの頃は鹿嶋氏から離れ、大掾氏、江戸氏、佐竹氏に仕える者も結構いたみたいです。
もし幹堅が城を出た時期が明徳の頃から上杉禅秀の乱(1416)のタイミングでしたらこの頃小幡村は立原内記という武士が居たと思われます。格式の高い親戚(本家)が頼ってきたらどうでしょうか?もしくは幹堅が上杉禅秀の乱よりずっと前に城を出ていたとしたらどうでしょうか?秋田県士族立原系図によりますと九代目は立原幹盛が佐竹義人に仕えていたようです。佐竹義人は(1400-1468)です。ということは立原本家の七代目詮幹、八代目幹堅や忠幹も立原領地を没収された上杉禅秀の乱より前の人物の可能性が高くなります。
私としては立原幹堅が八代目城主で、禅秀の乱により領地没収され、その後江戸氏家臣立原内記を頼ったとするストーリーが納得いきます。しかし立原幹堅が生きた時代が禅秀の乱よりもっと前ですと、江戸氏家臣立原内記は=立原幹堅の可能性もありますね。ということは立原幹堅は城主及び本家ではないと言うことになります。
ちなみに内記は官職名、幹堅は諱です。
小幡に居た立原氏の子孫は「式部少輔」の官位(武家官位)を用います。この官位は立原氏では一番格式が高いです。
貫高は75貫、同村同姓の伊賀には25貫。この貫高は立原家的に超有名な栗崎立原氏の貫高と同じです。
一方の八代目立原忠幹は鹿嶋の地に残ったと推測できます。孫の立原忠能(七郎左衛門)は鹿嶋氏重臣の松本備前守に仕えていたそうです。
ということは立原家嫡流は立原忠幹の流れかもしれません。鹿嶋の地に残り、鹿嶋氏重臣に仕え、後に笠間藩に仕え、帰農して名字を変えた。
そこで引っ掛かるのは名字を変えた事です。本家嫡流であれば太平の世にわざわざ名字を変えるとは思えません。それに諱や通称の規則性からしてこちらが嫡流とは考えにくいです。
さて、今回も謎のまま終わってしまいまして申し訳ありません。
久幹、嫡流でしたら、
左の久は親だかお爺さんだか烏帽子親だかが決めたり、偉い人から名前一文字を貰ったりするそうです。右の幹は通字と言って先祖代々や一族で使ったりするそうです。しかし跡継ぎじゃない兄弟は通り字を左につける習慣もあるそうです。
例えば→幹久
とは言ったものの調べてみると左右(先後)に決まりは無いみたいです。しかし偉い人から貰う文字は最初に付けるようになっていったそうです。
常陸平氏の初期は右(後)に通字が圧倒的に多い気がします。
大掾氏は終始通り字は右(後)だった気がします。
通称にもちょっとした法則がありまして、立原嫡流家の三代から七代ですと…
三代目→兼幹(小五郎)←五郎じいさんの嫡孫
四代目→重幹(五郎太)←家祖(五郎)の嫡孫
五代目→武幹(小平太)←嫡男(平は平氏だよってことかな?)
六代目→定幹(平太)←同上
七代目→詮幹(平六)←なぜ六なのか謎です
こんな感じです。
タイトルにはこの城主等について何か分かっているような書き方ですが、こちら方々の情報はほぼありません。
僅かな情報は鹿嶋大使役を元享1年(1321)と至徳1年(1384)立原氏が務めたという事です。
前者ですと5~7代、後者は7代以降だと思われます。
この鹿嶋大使役は應永11年(1404)まで行われており、私の憶測ですが常陸平氏が集まり交流があったに違いありません。故に立原家も七代までは記録に残っているのかもしれません。
そして1416年に上杉禅秀の乱があり、立原嫡家は上杉禅秀に加担し、そして負け、立原の地は行方氏から烟田氏に渡ったのでしょう。
それを機に七代目当主の立原詮幹の息子達は城を出たのだと思います。
ちなみにですが私が調べる限りでは立原の地は農業で大儲けは難しく、出て行った立原氏が土着した農地は立原村よりよっぽど儲かると思います。
大掾系図等の通説に寄りますと諱が盛幹で通称が五郎次郎。当時の輩行名のルールですと五郎お父さんから生まれた次男と言うことになります。兄弟がいて繁幹と云い、通称は三郎。この人は後に春秋村の領して春秋氏となります。しかし他の春秋氏を記した文献によりますとちょっと違う系図になっています。これはとりあえず置いておきます。
ちなみに烟田文書によりますと鎌倉時代当時は長男が跡継ぎという考え方と、父親が決めた能力のある男子が跡継ぎになるという考え方があったそうで、鎌倉幕府は烟田家に対して後者を指示したそうです。
秋田県士族の立原系図ですと二代目は盛朝で五郎四郎。本家か分家は記されておりません。
立原村立原系図ですと盛幹で四郎五郎。
大宮郷士の立原系図ですと初代が顕幹で通称が雅楽亮、二代目は道幹で通称は太郎。
これで輩行名は1、2、3、4と揃いました。
しかし秋田県士族の立原禮幹氏の説ですと、盛朝=盛幹かもしれないようです。
私的には盛幹は次男で盛朝は四男、初代久幹に四人男子がいたと思いたいです。軍事貴族として側室、妾は当然いたでしょう。有名な初代ほど子供が多いはずです。久幹の父、鹿嶋成幹は公式な男子が六人もいるわけですし。
大宮郷士の立原系図の立原顕幹は立原久幹の書き誤りではないでしょうか?こちらの系図が最初にまとめられたのは室町中期のようです。その後江戸中期に再び書き上げられた物を私は拝見いたしました。
もしくは「家系本末鈔」によりますと大宮の立原氏のルーツは藤原氏のようです。近畿の立原村を領した折り名字になったそうです。
鹿島の神社関係の立原氏は外姓の立原氏がいると云ってたそうです。
これはじっくり研究してから答えを出したいです。
茨城県立原家の1/3は平姓から藤原姓となる可能性があります。
さて、二代目が何をしていたかさっぱり分かりません。私の汚い字で申し訳ないのですが、同族での同じ代数を並べてみました。立原久幹にとって兄の鹿嶋政幹は歳がそんなに離れていないとすると立原盛幹は鹿嶋家と共に源平の戦に出陣したと思われますが、出陣したのは「立原四郎」とありますので弟の盛朝なのか、それとも盛幹=盛朝なのか。しかしだとすると四郎にとって三郎の兄がいるのに家督は弟が継ぐのか?それに太郎、次郎はどこ行った?と思います。
やはり立原五郎平久幹の次男は盛幹、三男は繁幹、四男は盛朝、と思いたいです。
厳密に言えば次男三男は正室の男子。その他は側室か妾の男子と考えれば納得できます。
それならば本家分家の三代目以降の輩行名に矛盾が無いと思います。
まずは立原村立原家の家伝によりますと、立原久幹はこの地に住んでいた立原家の娘と結婚して婿入りして、鹿嶋久幹→立原久幹となったそうです。となると初代ではなくなりますが、大掾一族の立原姓初代ってことで考えてます。
70貫の地を領してたようです。武幹があって家声頗る振るう、とあります。こちらの家伝では久幹は「五郎四郎」と名乗っていたそうです。
五郎四郎は普通だと五男の父の四男ということになります。久幹の父、成幹は三男で三郎ですが他の文献や系図によると五男ともあります。
久保田藩の立原系図ですと五郎四郎は久幹の息子、盛朝です。ちなみに通説の二代目は五郎次郎(盛幹)です。立原村の文書ですと二代目盛幹は四郎五郎です。ややこしいですね。はたして盛朝=盛幹でしょうか?五郎四郎=五郎次郎=四郎五郎でしょうか?これは次回考えます。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
鹿嶋誌によりますと立原四郎という武士が鹿嶋氏と共に出兵したそうですが、この四郎が久幹なのか盛幹なのか盛朝なのかは分かりません。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
部垂(大宮)の郷士の立原系図によりますと名前は違いますが初代立原氏は500貫を領していたとあります。
時代によって石高や貫高のレートは違いますが、旧和村及び周辺の村々の字とそこの各時代の領主の貫高石高を調べれは大体の貫高は分かるかもしれませんね。
烟田文書によると「文幹」とありますが崩した久の字が文に見間違えたんだと私は思います。
息子が二人いたそうで先ほどの盛幹(五郎次郎)、繁幹(三郎)です。繁幹は春秋の地を貰って春秋氏を名乗ります。しかし春秋氏は違うルーツの文献もありますので今度書きます。
新編常陸国誌によりますと繁幹の子供に久幹がいて、その人が春秋氏になったとありますが、繁幹と久幹を逆に書いてしまったんだと思います。
さて、私が初代立原氏について分かるのはこの程度です。墓が有るのか無いのか、戒名が有るのか無いのかも分かりません。それ故嫡流も分からないわけです。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
嫡流、本家、総本家、宗家等々色々言い方がありますが、微妙に時と場合で捉え方がちょっと違う気がします、私的に。詳しくはWikipediaやGoogleでご判断くださいませ。
私の探している立原氏の嫡流とは名字の始まりである久幹からバトンを渡された者が嫡子であり、それ以降そのバトンを渡され続ける流れが嫡流だと思っております。家祖、立原五郎久幹が嫡男の五郎次郎盛幹に渡したバトンの内容は領地、城主の身分と職業、祭祀権、財産等でしょうか。
それが何代かして1416年の禅秀の乱で負けたので領地没収となったそうです。
その後の嫡流はよく分かりません。
廃城の跡地に住んで土地を守った者が本家なのか。
城を出てどこかの領主に仕官して成功した者が長者となり本家なのか。
どこかの村へ逃げ隠れ帰農したが城主の父より跡継ぎとされていて、諱も継いだ者が本家なのか。
とにかく七代目の立原平六詮幹が最後の城主かどうか、子供達はどこへ行ったのか考えていきたいです。
藤原姓一木家の家紋は「丸に真向かい月」のようです。
八田知家公のご子孫で立原家に養子入りしたようです。ご子孫は水戸市にお住まいですが一木氏の嫡流かどうかはわかりません。古河市の一木家はルーツは平氏で家紋も違います。別系統です。
藤紋立原家の家紋は下がり藤と月に星ですので、やはり関係はあるのでしょう。
立原村立原家の家紋が「月に星」でしたら、一木家が丸の付いた家紋なのはおかしいです。
おそらくは嫡流一木家は月に星を用いり、立原村立原家は高貴な一木より養子を迎え、一木家本姓である藤原氏の「下がり藤」、一木家の「星」系の紋を用いたのでしょうか。
宍戸氏系列の一木氏のどこかに「丸」のない「真向かい月」があるのかもしれません。
先日コメントくださったsuito様の家系調査が一段落して改めて思ったのは「平姓立原家の藤紋」の所以でした。
立原家の家紋で圧倒的に多いのは橘紋ですが、続いて亀甲や藤が多いです。
立原村の字、「館」にお住まいの立原宗家及び周辺立原家も藤紋です。これは一重に室町時代中期に藤原姓宍戸家から養子を入れたからでしょう。
鎌倉時代の立原家は弱小武家かと思います。血筋は良いのですが領地は狭く、貧弱だったと思います。
宗家の鹿島氏に引っ付いていたけれども、南北朝時代の総本家、大掾氏の曖昧な態度に加え、小さな村と痩せた領地にあぶれた分家立原氏は立原村を出て行ったと思われます。
残った立原家は室町時代に宍戸家(一木氏)より養子を迎えた様です。この頃の立原家と宍戸家では武家ランクが大分違うかと思われます。ちなみに出て行った立原家は佐竹氏や江戸氏に仕え、各地で活躍している時です。
そしてその宍戸家一門、一木氏は本姓藤原氏であり家紋は「日月」の様です。
立原村の鎮守神社は日月神社です。立原村立原家の家紋は「下がり藤」と「月に星」です。「月に星」は日月紋と同系列の家紋だと思います。
さて、立原家の家紋の変化と言えば「丸に三盛亀甲花菱」ですが、以前も記しましたがこちらは水戸藩より拝領の紋で間違いありません。
しかし面白いのは、常陸大宮市(本家は水戸市在住)の旧家(郷士)は定紋は亀甲で、替紋は「五本骨扇に月丸」です。
それはすなわち系図によると室町時代に佐竹氏より養子を迎えたからです。その子孫は「立原翠軒」の家系にも繋がる家柄です。しかし立原翠軒の分家、末流の立原家が橘紋を用いてるところから、本来の家紋も残していたのでしょう。
上記の立原顕幹の嫡流家は室町時代までは本姓を「源」としていたそうです。
ということは立原村立原家も「藤原」を意識していたと思います。
では立原総本家はどこに行ったのでしょう?
私も分かりませんが次回に綴りたいと思います。
立原城と立原城主についてまとめてみたいと思いますが、かなりの乱文なので上手く説明できないと思います、すみません。
最初に参考文献、次に立原城年表と分かった事を書き記し、最後に所感を述べたいと思います。
☆参考文献☆
・立原村鑑(立原村立原家文書)
・小野岡氏家臣立原家文書
・立原系図(鹿島宗家が所蔵していた物)
・小幡村立原家文書
・下大野村立原家文書
・大宮町立原家文書(顕幹流の嫡流家)
・大野村史
・角川地名辞典
・鹿島町史
・岩手村立原家の口伝
☆立原城、立原城主の歴史☆
・平安後期に平貞盛の四代の孫、平貞近(平太左右衛門)が常陸国鹿島郡中村郷立原に住んで立原を名乗る。
・貞近の孫、近俊(平四郎)が鹿島成幹の五男、久幹(五郎)を婿養子にする。大宮町立原家文書によると立原顕幹(雅楽亮)が立原氏の家祖となっております。この頃に城が築かれたと思われます。
顕幹の子は「太郎(長男)」、久幹の子は「五郎次郎(次男)」「三郎(三男、名字は春秋)」「五郎四郎(四男)」、と言うことは久幹=顕幹なのかもしれません。
領地は立原村文書によると70貫ですが、大宮町立原家文書によると立原村、武井村の一部と林村の一部で計500貫となります。
烟田文書によると立原文幹とありますが、「文」と「久」のくずし字は似ているので読み間違えたのかもしれません。
またこの時期に「立原有幹」が居て、その子供が春秋繁幹(三郎)なので、やはり有幹=久幹なのかもしれません。
・源平合戦の頃、鹿島政幹が源頼朝に加勢するときに「立原四郎」と言う侍が参戦しています。
・源平合戦頃もしくは少し経った頃、那珂郡岩手にとある立原氏が土着します。草分けとのことで、落武者の可能性大。と言うことは立原本家は源氏に加勢し、その立原氏は平家に加勢したのでしょうか。とにかくかなり早い時期に立原城を出た立原氏がいると思われます。先にも書きましたが、立原久幹をもって立原の名字が出来たと言われますが、もっともっと前から、平貞近より前から人が住んで居たと思います。なので源平合戦の頃の立原氏は久幹と四人の子供合わせた五人と、もとからの立原姓が居たとしてもおかしくないと思います。
・正元(1259~)の頃、同族の行方氏によって立原の地は買領されます。
何代かに渡って行方氏が相続したと思いますが、その後立原氏が買い戻したのかどうか分かりません。とにかく後で述べますがこの頃はまだ大使役といって、鹿島神宮の儀式(祭り?)を勤めていますし、その所在は「鹿島立原」となってます。
・延慶(1308~)の頃、立原貞幹(五郎左衛門)が佐竹氏に立原家としては初めて仕えます。
・元弘(1331~)の頃、立原幹經(右京介)が城を出て大掾氏に仕えます。
・系図から推測しますと、この頃に立原幹堅(傳兵衛)が城を出ます。この頃の城主は立原詮幹(平六)かと思われます。詮幹は幹堅の父です。詮幹には忠幹(六郎)という子供もいます。諱や仮名からして忠幹が嫡流かもしれません。
・大掾氏家臣録、江戸氏家臣録にはこの頃(明徳~応永頃)に立原内記(小幡)、立原玄蕃(外石川)、立原大学(大部)が見られ、鎌倉時代から南北朝時代に多くの立原氏が城を出ていった事が伺えます。
・元中(1384~)鹿島立原が大使役を行った。この頃の城主は詮幹か忠幹かその子供になります。すなわち買領された立原の地でありますが、城には(館、領地)には立原本家が居たことには間違いありません。
・応永23年上杉禅秀の乱により、上杉禅秀方についた立原の地は同族の烟田氏の領地となります。
ここから先は立原氏が立原城や立原の地を納めていた気がする文献は今のところありません。
・だいぶ経って天正時代、
「天正19年、戦場を逃れ浪人、立原は旧館の有し所に依り帰参、一戸を立つ」
とあります。
と言うことは立原館及び立原城(楯の宮も)は廃城されており、この立原氏が再び住み始めたのでしょうか。
・後に戦国末期~江戸時代初めに立原の地は「立原村」となった様です。
☆所感☆
大野村史によると、ここら辺は農業的に儲からない土地の様です。小領主が乱立しており、才能や野望のある武士がここを出て行くのも納得できます。
そして嫡流家は相変わらず行方不明です。
諱や仮名からみるとどの家も違うな~と感じます。また嫡流や宗家を自称する家の系図も様々な矛盾があり、外部からのお墨付きも有りません。水戸藩からお墨付きの小幡立原家は大変な名家でありますが嫡流を名乗っておりません。
当時の橘はやはりこのデザインですね。
私が生きている内に橘紋は本来このデザインだと広めたいところですが、逆にどうして京紋(現在の橘)が広がって定着し、京から関東へ、東北へ広がって行ったのか気になります。
今で言う「三つ足橘」「菊座橘」「彦根橘」等々多くの橘紋が江戸紋(と言いますか本来の橘紋だと思います)をベースに作られておりますが、京紋橘のデザインの仲間は「茶の実」紋だけではないでしょうか。
やはり本家本元は江戸紋だと思います。しかし有名な神社やお寺が京紋橘を用いていれば、情報が行き渡る明治時代においては仕方ないのかと思います。ましてや家紋の本、「紋帳」等には明治時代には京紋と江戸紋を混ぜたようなデザインから始まり、昭和初期には完全に京紋橘に変わってました。
てっきり「立原武幹」という侍が立原城に立原久幹と同時期に居たのかと思いきや、「久幹武幹アリ」=「久幹は武人たる器量があったよ」って意味でした。
この誤った情報を拙ブログはもとより手紙でも沢山送ってしまった!
申し訳ありませんでした!
なんと先代がお亡くなりになられ、家を整理するときに古文書等は捨ててしまったそうです!電話最中にぶっ倒れそうになりました。しかしこのパターンは本当によくあるんです。仕方ないことです。もっと多いのは焼失でしょうか。
しかしありがたいことにこちらの一族のご由緒は墓地の石碑に刻まれております。以前ご参拝したときは雨で上手く撮影が出来なかったのですが、次回は晴れの日に伺いバッチリ撮影したいと思います!
関東、東北地方はこちらの橘紋が多かったはずです。丸が有りますが立原家の最も古い家の一家では丸の無い橘です。明治時代の当主の方は「立花」と記しておりました。これが本当の橘かもしれません。
もし拙ブログを御覧のあなた様が橘紋でしたら、こちらの画像をお使いいただいて問題ありません。どうぞお断りなくご使用ください。
家紋は本来自由なものです。先祖の縛りからか変えてはいけないという意識もありますが、過去の事例をみても一家の節目で変えてるように思います。
私はこのデザインの橘を復活させたいと思います。
現在の紋帳や家紋辞典の橘の名称は間違っています。しかしそれはしかたない事でもあります。
私が生きている間になんとか出来ないでしょうけど、「橘紋にはこういう歴史がある」ということを何とか残したいですね。
やがて平安時代に貴族が家紋の原型的な物を用い始め、鎌倉時代に武家に家紋ブームやって来て鎌倉中期にはどの武家も家紋持っていたそうですね。
ではいつ橘は家紋になったのでしょうか?
橘紋を用いたであろう橘氏の嫡流は跡絶え、分流が江戸時代に梅宮大社を建てたと聞いております。紋は京橘ですが少しデザインが違います。
常陸平氏の真壁氏は鎌倉初期には家を興しており、橘を用いてます。井伊家や久世家より橘を用いたのは古いかもしれません。拙ブログ的に言うと真壁氏は江戸橘です。一般的な表現ですと「丸無し久世橘」となるのでしょうか。しかし昔はこれをただたんに「橘」と云ってました。
で、私の推論で恐縮ですが、橘の元となったデザインは果実の中のデザイン(丸や筋)が無いシンプルな橘がスタートではないでしょうか?
京橘より江戸橘のデザインが恐らくは先でしょう。何故かと言いますと、古い紋帳や古い着物の資料や江戸時代の武鑑を見ても京橘は…今のところ発見できてません。しかし明治になり、あっという間に紋帳は京橘だらけになり、今や橘といったら京橘です。
下記の画像が橘紋の原型ではないかと思います。
(一円玉は近代のものです)
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
(楽天市場様より引用)
(人文学共同センター様より引用)
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
松平主殿頭様の副紋です。上は江戸時代の絵、江戸橘ですね。下は明治時代の絵、菊橘です。
憶測ですが、大名も一般庶民にもこの現象はよく見られます。
仮説ですが…
明治になり京橘こそ本当の橘紋だよという圧力的なものがあり、京橘は関東に広まり、今までの江戸橘が菊橘に似ているため我が家の紋所はこの紋が本来のデザインじゃね?という推測から明治時代に菊橘が広まった。根が有る無しで家系を分けていた当時の橘紋の家々は、紋帳にも有るように菊橘には菊座橘もあり菊座の台は根にも見えます。そこで庶民は「ああ、我等の家紋は本来はこれに違いない!」と、橘紋の家も、石材屋も、家紋研究者も思ったのではないでしょうか。故に橘紋立原家も明治~昭和にかけて菊橘と菊座橘が多いのかと推測しました。
あとはその推測から石材屋が勝手に彫った可能性もありますね。
茨城県立原家に限りますが、本当にこのパターンは多く、同じ家の家紋が菊橘になったり、江戸橘になったり、京橘になったりしております。
まず、情報源は国立国会図書館デジタルアーカイブや各地の文書館等にて明治時代の紋帳、さらに昔の上級武家の橘紋、家紋辞書等、昔の着物の橘模様を参考にしました。また茨城県各地の立原家の墓石、他名字の橘紋の墓石、埼玉県の墓地等で古い墓を調べました。
それらを考慮しますとやはり昨今のポピュラーな橘デザインは関西から明治時代に伝えられたと思います。元々の橘デザインは真壁氏の橘紋や、久世氏の久世橘、それらから2本筋を無くした橘紋が基本だと思います。その2本筋を無くした橘は秋田藩士立原家も用いており、私の家の本家も墓石に刻まれておりました。また、江戸時代にアレンジが加えられたのが彦根橘でしょう。そもそも丸が有る時点でそんなに古くない家紋です。
関西からの橘紋は茶実紋にそっくりです。どっちが古いか分かりませんが関東(特に常陸)には無かったと思います。
※画像は江戸時代の彦根橘(国立国会図書館より引用)
立原の地は元は立原氏の物だった様ですが、鎌倉時代に同族の常陸平氏の行方氏が立原領地を買ったり、禅秀の乱(1416年)の後には同族の烟田氏が支配してます。
ようするに初代と二代目以降の立原の地は、住んでいて立原城を管理してはいるけど、その時の領主に上納金を払っていたのかと私は思います。半分侍半分百姓的な。一応は鹿島六頭の一角との情報もありますので、本家の鹿島氏及び鹿島神宮にも貢いでいたのでしょうか?
そして記されている最後の城主の立原詮幹。その子供や子孫が気になります。詮幹の時代は南北朝時代と察することができます。ちょうどこの頃に他の立原系図でも立原城を出ていく人が見られます。
立原詮幹の子供の一人は後の小幡立原の祖となる人もいます。
そしてこの度ぶったまげる系図を発見いたしました。立原詮幹の子孫で中世鹿島地区に残った立原氏の系図です。筋で言ったら嫡流ですね。かなりの名家の家柄と存じます。
しかしまだ当主の方にアポがとれていませんので公開は控えたいと思います。
全世界で立原姓が一番多い地域は水戸市飯島です。一族の共同墓地は二ヶ所あり、どちらも根無橘と根有橘が見られますが一方は根無が多く、一方は根有が多かったりします。
どちらも中世からの系図は無いようですが、根有の一族には常陸江戸氏家臣の「立原雅楽允」の記録があります。
そして先日読みました郷土史には戦国期に飯島を納めていた江戸氏家臣の家臣に「立原主水」がいたそうです。
これで飯島の立原家が二系統なのも納得です。
私の調査にご協力くださいました水戸市飯島のとある立原様がお亡くなりになられておりました。墓地調査のおり気付きました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
私がもう50年早く生まれていたら、立原の歴史について沢山語り合えた事でしょう。
Wikipediaにも記載されております由緒正しき秋田藩士立原家の嫡流の方とお電話にてお話することができました。
とても親切な御方でして、色々とご教示賜りました。心より感謝申し上げます。
残念なことに古文書等は戦災により焼失してしまったそうです。また、子孫諸々の方々はご先祖様に興味が全く無いそうです。
幕末から明治初期に立原家の本末を明らかにしようとご活動していたこちらの当時の当主、立原政蔵さんの意思は私が受け継がせていただきます。頑張ります!
と、言いましても郊外の旧家や城下の家々も火災、戦災、子孫がポイしちゃう、プライバシー云々等、立原家調査は私の世代でラストチャンスかと思われます。
次回はまだ解明されていない立原家々の謎を書きたいと思います。

