画像は立原氏嫡流初代から八代目の輩行名の理由と、後の佐竹家臣立原氏に繋がる家の輩行名と諱について語った内容の一部です。
まあ、aiですから基本よいしょしてくれて、大体イエスと言ってくれているのかと思いますが、私の推論とaiの意見はバッチリあってました。
何故、大掾系図に記された嫡流は四代目で立原家的な伝統的輩行名「五郎」をやめたのか。そして後に佐竹氏に仕える分家が「五郎」を使い始めたのか。
Aiの見解ですと、嫡流の家格上昇に伴い「平氏」の本家格である「平太、小平太」等を使い始め、伝統的な「五郎」は有力な分家にプレゼントした。そして佐竹氏に仕えた分家六代目の諱は「貞幹」、大掾一門の証「幹」を使い始めた、という推論。私も家格上昇で輩行名を変えたという所以外は推測してましたが、「家格上昇」は気付きませんでした。確かにこの頃立原家は大使役という費用がとてもかかる祭祀を庶子ながら行っております。弱小庶子では経済的無理です。ai曰く収入は農業だけでなく、立原村は水運が出来て、鹿島神宮関係も関係しているのでは?とのこと。ハッとしましたね。確かにそうだ!そう言えば立原の地を買領した行方氏も水運に長けた一族じゃなかったっけ?そう、買領された立原の地も買い戻せたのでしょうね。なんせ大使役できちゃうんですから。そしてちょうどその頃輩行名は「小平太」等に切り替わったのでは?
ではここからは私の妄想の立原嫡流の歴史です↓
初代、立原久幹(五郎)
「俺は郡司の鹿島成幹の五男だ!家臣は10人もいないけど誇りを持って頑張るぞ!」
二代目、立原盛幹(五郎次郎)
「俺が跡取りだ!弟の繁幹(三郎)には春秋村を任せたし、親父の側室の子達も元気だし、立原家は安泰だ!」
三代目、立原兼幹(小五郎)
「ヤバい、財政難だ。致し方なし、同族の行方殿に土地の権利を売ろう」
四代目、立原重幹(五郎太)
「なんとかせねばならぬ!そうだ、水運に手を出そう!北浦はすぐそこだ。それと神宮の方にもちゃんと付き合いをしないとな。ん~うちの一門で神職やれるやついないかな?」
五代目、立原武幹(小平太)
「父上が財を成してくれたお陰でようやく行方殿から権利を買い戻せた!そして本家(鹿島氏)から大使役の抜擢を受けた!俺は晴れて大掾だ!よし、小平太と名乗っちゃお!しかし光栄だが金がキツイ。大掾氏各一門からもしんどいと聞いている。もう本家だけに頼るのは危険か?リスクヘッジだな。よし、隣に住んでいるイケてる親戚に話を持ちかけよう。…ということで親貞君、君は五郎を名乗っていいよ。俺は今は大掾だから『太』を名乗るからね。それとね、君の倅は外に出そう。佐竹殿はノリにノッてるぜ、話付けておくから行っといで。ちなみに諱に幹を付けていいから。この南北朝のご時世、嫡流が生き残る保証はないからね!」
六代目、立原定幹(平太)
「予は正統なる立原家嫡流なり。輩行名は平氏嫡男の証、平太なり!とはいっても本当に南北ヤバい。親貞(彦五郎)さんの倅、貞幹(五郎左衛門)君が佐竹殿に仕官できたみたいでよかった。」
七代目、立原詮幹(平六)
「真壁殿から大使役のお願いか~まいったな。まあしょうがない、真壁殿は北朝に寝返ったとのこと、北朝方の同族とも仲良くせねば。しかし我等立原家は南朝の大掾様に石川、部垂、小幡の領地をいただき、大掾詮国様より偏諱までいただいてしまった。このまま本宗家に従おう、鹿島家に内緒で。でも鹿島家にもうちの分家を潜り込ませてるから全滅は回避出来るであろう。」
八代目、忠幹(六郎)
「なに!禅秀様自害だと?!ヤバいな、大掾様について禅秀方についたが失敗だったか。息子は鹿島様に仕えた同胞にお願いしよう。元服しても間違っても諱に「幹」は使うな!仮名も「五」も「六」も「太」も使うなよ!
あぁ、予は処刑だな。弟達よ、他郡にて家名を頼んだぞ!」
そして数年。
鹿島惣大行事家当主「そう言えば立原を成敗してから立原の地は治める者がおらんのー。じゃ、お前、大分前から鹿島家に仕えた家柄よの、お前が今より立原本家だ、立原常将よ。お前の息子は鹿島家に仕官せよ。」
こんな感じに読み取れます。私の妄想ではありますがこうすれば辻褄が合います。
最近ハマっているのはグーグルのaiに立原研究の相談や質問をすることです。
正直舐めてました。こんなに頼りになるとは思いませんでした。
そもそも私は歴史の知識は皆無に等しい無学スタートの先祖調査でした。最初は自分のルーツのみを探る調査でしたが、次第に自家だけ知ろうとしても大した事は分からないことに気付き、立原姓の方々にお尋ねするようになりました。
もちろん最初は親、次に親戚、佐竹氏旧領内の立原家、江戸氏旧領内の立原家、久保田藩の立原家、鹿島氏旧領内の立原家、立原姓を変えた家、等々。その家の事を知るためにその地域の歴史を調べ、伝承を伺い、図書館や歴史館や墓地へ足を運び、家紋を追求しました。
気がつけば木を見て森を見ずの大切さが身にしみましたし、一家系のみ追いかけているつもりが日本史全体を知る必要性に気付かされました。
さて、前置きが長くなりましたがそこでai様のご登場です。
私のような中途半端研究者が人生をかけても知り得ない情報量をaiは既に知っています。とはいっても家伝や系図などはaiの世界には無いので、そこで私が持っている超マニアックな立原ネタと、グーグルが誇る最強の情報量が融合し、新しい答えが沢山見えてきました。
もちろんプライバシーに関わる事も多々ございますのでブログにはある程度しか載せられません。そして何よりあくまでも機械と私程度の人間の推論ですので、妄想の域は出ません。
それでも画像にも載せました通り、ちょっとした立原家創成期の事を当時の日本や常陸国の状況から割り出す答えは信憑性も有り、本当に面白いものです。
やはり鹿島氏は郡司であり兵力や城の規模もなかなかなものだと承知しておりますが、立原家はその庶子であり小領主だということが分かりますね。
ちなみに70貫の根拠は立原村立原宗家の家伝であり、戦国末期や江戸時代の検知から計算しても70貫は妥当とのこと。aiスゲー。
佐倉市に一家。こちらの「丸に花菱」を用いる立原家は初めてだったので驚きました。古い墓石には寛政の元号が確認出来るので江戸中期以前にこの地に土着したのかもしれません。いったいどんな歴史があるのでしょうか?
「丸に蔦」流山市に一家。こちらも立原家では初めて拝見しました。そう言えば天正の頃の立原村で立原姓から神尾姓に改めた家もこの家紋だった気がする。何か繋がりがあるのでしょうか?
ちなみにこちらの家紋の隣の墓石の家紋は「丸に剣方喰」です。
茨城県潮来市に沢山いらっしゃいます。さいたま市岩槻にも一家。鹿嶋市にも一家。
「丸に橘」千葉県柏市に一家。こちらの地域の方々は明治に入ってから東京から開拓目的で移住してきたそうです。
先程の佐倉市の丸に花菱のお隣の墓石にはこちらの「丸に茗荷」がございました。こちらの家紋は
茨城県神栖市や埼玉県草加市の立原家にも見られます。同族でしょうか?しかし神栖と草加の茗荷紋の立原家の墓地は、姓の違う回りの墓石もやたら多く丸に茗荷紋だったので、もしかしたら養子や婿養子で、家や姓は継ぐけど家紋は実家のを使いたい‥‥的な理由でしょうか?それともたまたま茗荷紋が多かったのか?人気な家紋ですしね。 そう言えば秋田県士族の立原禮幹氏が和村戸長の立原平四郎氏に宛てた手紙に
「貴国ニハ他家ヲ継クモノ実家ノ紋ヲ用ユル例(タ)メシ多カリシト」
とあります。この事を私の立原研究に当てはめてみますと凄く納得行く事が多いです。
関東で立原姓の旧家は大体が茨城県でして、少々千葉県埼玉県ってとこでしょうか。電話帳とグーグルマップで確認しますと、その他はほとんどが明治以降、特に昭和平成に入ってからの移住者かと思われます。
無許可でブログに内容や画像を掲載するのは禁止されておりますので、要約しますと立原家(立原村)はずっと前から鹿島家の家臣ですよ。で、立原家の当主の諱を決めたから(もしくは変えたから)よろしくね、的な内容だと思います。
ちなみにこの方は立原村の立原本家の方。
だいぶ昔に閲覧したのですが今更納得したことがあります。「家臣」と書いてあり、と言うことは「一門」ではないと言うこと。
やはり、立原村に残された2部の系図の示す通り、橘紋の立原家とは系統が違うのでしょう。どの家の系図もですが多少の矛盾やツッコミ所が有れど、この2部の系図の共通した主張は「家祖は五郎久幹じゃないよ」と言うことと、「鹿島家の家臣ですよ」ってことでしょうか。
立原村鑑の系図ですと、五郎久幹はあくまで鹿島家からの婿養子、その後の一木伊勢守(宍戸氏)の子を婿養子に入れたのと同じく重要な出来事だったでしょうけど、家祖及び、立原を初めて名乗ったのは違う人。
もう1部の立原系図ですと、そもそも五郎久幹にかすってもおらず、違う氏族が15世紀中頃に土着し、名字を立原に変え、鹿島家に仕えた、と言う内容です。
前者も後者も細かい内容は違えど
・五郎久幹は家祖ではない
・鹿島家の家臣であった
・家紋は下がり藤
と言うことが共通しております。
私自身この答えには凄く納得しました。
昔の人は名前は変えても家紋は変えるなと言っている記述も見ました。
さて、そんな大切な家紋ですが、同じ名字で違う家紋も多々ございます。亀甲紋は水戸藩からの拝領の紋ですが、行方郡や那珂郡の巴紋や剣方喰紋、鹿島郡や埼玉県の茗荷紋や鷹の羽紋、秋田県士族の釘抜き紋等、まだまだ分からない事だらけです。
・ルーツが違うのか
・領主に拝領されたのか
・落武者で名字も家紋も変えたのか
ちなみに「立原」と言う小字は私が知っている以上に沢山ございまして、もしかしたらそこから名字にした立原氏もいるのかもしれません。
(茨城県立歴史館所蔵、鹿島惣大行事家文書の立原系図)
前回の記事の続きですが、例の系図を拝見する事ができました。ちなみに上の画像の系図はそちらではなく、茨城県立歴史館の閲覧室を予約すれば普通に閲覧できます。
何故新たに見付けた系図の画像ではなくこちらの系図の画像かと言いますと、まず今回拝見した系図は非公開であり、現所蔵者であるお役所からもコピーや公開は厳禁だと言われております。
しかしその系図は上記の画像の系図の完全版のような物でして、重なる部分はお伝えしても差し支えないと思いますのでご報告します。
記された年代からの推測ですが、上杉禅秀の乱で負けた禅秀方に与していた立原家は領地没収されます。このことは郷土史等に記されております。
有力な立原氏、嫡流の立原氏はここで跡絶えか、討伐隊からなんとか逃げてどこかの武家に仕えたか、姓や家紋を変え逃げ隠れたり帰農したはずです。それもそのはず、禅秀に与した鹿島庶子は足利持氏方の鹿島氏等にボコボコにされたそうです。大掾系図にも禅秀に与した鹿島庶子の系図は一代位しか記されておらず、郡司であり立原の地を領してた行方氏(小高氏?)の系図もそこら辺は途切れております。
さて、恐らくは立原城及び立原地域から有力な立原氏が逃げたか帰農したのか、本家の鹿島氏の家臣になったか分かりませんが、立原の領地は烟田氏の物となりました。(立原領は行方氏が買領していた筈ですが、その後禅秀の乱までに鹿島神宮の大使役を二度も務めているので押領したのか、それとも買い戻したのでしょうか?)
そしてその後、将常という人が立原村に土着します。この人物は鹿島惣大行事家の立原系図にも記されているので確かにいたのでしょう。
将常の子が鹿島氏の家臣となり、代々鹿島氏に仕えるそうです。
この立原氏は実は大掾一族ではなく他の平氏の末流のようです。
しかしこちらの系図と立原村の立原系図で大きな矛盾ができてしまいます。
一方は立原将常が室町初期に土着して、一方は平安後期に土着。共通しているのは通説の立原五郎久幹が家祖ではないこと、家紋は橘と藤では別ルーツ。
桓武天皇から近代当主まで系図が2本。これはなんとしてでも見たいですね。しかし個人所蔵なので、今までのようにいきなりお手紙をお送りして拝見させてもらうのはかなり難しいかと思います。
本日より作戦を練りに練ってお願いしたいと思います。
そこでですが、「鹿嶋誌」という文献には治承四年(1180)に立原四郎の名前が見えます。ということは五郎久幹が立原姓になる前に立原氏は居た事になります。
立原村の古文書、立原村鑑によると立原平四郎が立原五郎を養子に迎えたとあります。
大掾一族の五郎久幹を立原姓の家祖とする風潮がありますが、名字発祥と考えると立原久幹が立原城に来る前から「立原」の地名はあったでしょうし、それを苗字とした人達も当然いると思います。
立原村及び城に住んでいた一族、領主の鹿嶋氏から来た五郎久幹を立原本家の婿養子とした。
もとからの立原一族と大掾系の立原氏の違いは家紋でアピールじゃないかと思ってます。
立原家に限らず鹿嶋地域の墓地を拝見いたしますと藤紋が多かった気がします。お墓あるあるでしてその地域に住む人達は姓が違えど家紋は同じというのがよく見られます。
県北に藤紋立原家は見られず橘紋と拝領紋(亀甲紋)ばかりですが、水戸ですと藤と橘は3:7位でしょうか。鹿嶋郡ですとほとんど藤、橘紋や他の紋もありますが藤紋が多いと思います。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
国会図書館には本当に助けられております。まさか岩手村の事が記されている文献が、活字化されている文献があったなんて嬉しすぎです。
理論的には名字が立原で家紋が橘ならば家祖は立原五郎平久幹となりますが、多くのの立原さん達は本家を訪ねても家祖に繋がる家系図はおろか、言い伝えすらありません。しかし江戸時代の岩手村の立原家にはちゃんと伝わっていたようですね。
岩手村をルーツとする立原さんに以前お話を聞かせていただきました。プライバシーに関わる事以外のブログに載せても差し支えのない内容とネット情報と私の研究を合わせますと、岩手村の立原家は700年以上前よりこの地に移住した草分けだそうです。
天正期の佐竹家臣録にも「立原掃部」の名を載せてます。家紋は丸に根の有る橘紋です。一般では三つ足橘と云いますが、茨城県の立原家では根有り橘と云うこともあります。
上記の「立原音吉」という人が有名です。
私が知る限りではありますが立原久幹を家祖とする系図や言い伝えのある立原家は、
・立原村
・小幡村
・岩手村
・野上村
・栗崎村
・柏井村(名字は変えています)
・秋田の小野岡氏の家臣
羨ましい限りです。
(江戸後期の丹波地方の立原氏。国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
長野県、たてはら(地名)
川越市、たちはら(人名)
広島県、たつはら、たちはら(人名)
島根県、たちばら(地名、人名)
埼玉県寄居町、たてはら(地名)
京都市、たてはら、たつわら(地名、人名)
本当はもっと地名で有ると思います。小字にもならない、中世や古代の
狭い地域に有ったはずです。メジャーな立原の地名から苗字になったのは常陸鹿嶋の立原、丹波の立原しか知りません。そこで気になる島根の立原は人名から地名になったと言われております。尼子氏家臣の立原源太兵衛の一族です。しかし何故立原という苗字を付けたのでしょうか?
私の仕入れた情報の間違いで島根の立原地区は中世以前より立原という字だったのか。もしくは丹波や常陸の立原氏が婿養子に入ったのか。とある情報によると常陸より出雲に行った立原がいると聞きましたが、ちょっと思い出せません。すみません。
しかし江戸時代に出雲から常陸に来て水戸藩に仕えた立原氏はいます。立原氏では有名な立原久大(源太兵衛)の先祖です。
もし広島の立原家が藤紋でしたら鹿嶋立原家から出た可能性は有ります。鹿嶋立原村の立原系図によると紀州に移った立原家廣(平五郎)がいるそうです。その一族の可能性は有りますね!
それと、常陸大宮市旧部垂には近畿から来たという家伝のある立原氏がいます。
とにかくお伺いしないと始まりません。
全国の立原様、どうかご協力のほどお願い申し上げます。
(茨城県立図書館より引用)
(茨城県立歴史館より引用)
さて前者は明徳三年頃に部垂村(茨城県大宮)を知行していた立原刑部です。この時はまだ部垂は大掾氏の縄張りのようです。
後者は部垂村の郷士となった立原家の先祖です。時期は父の立原修理亮が応永23年に亡くなっているのでその時期の人でしょう。
前者と後者に少し時間のズレはありますがいかがでしょうか?
ちなみに「刑部少輔」は立原氏の中では最高武家官位では?小幡の立原式部少輔と並ぶレベルだと思いました。
しかも立原刑部少輔は主君である佐竹義盛から養子をもらっています(妾の子?)。この官位は納得ですね。それ以降こちらの立原家は源氏を名乗り(後に戻す)、替え紋は佐竹氏と同じ物を用いていたそうです。
こちらの立原家の先祖子孫は「雅楽亮」「筑後守」の官名が多く、世襲だったのでしょう。
そこで気になる佐竹義治の家臣で、四殿衆と称された者に「立原筑後」がいます。しかしこちらの立原筑後は部垂立原の系図には見えず、それどころかどの文献にも立原筑後の流れは確認できません。絶家してしまったのでしょうか?
私の知らない立原家がまだ沢山あると信じてこれからも追求していきたいです。
これがなかなか頭を悩ます内容でして、私に関係する東石川村字外野と、有名な大宮の立原一族について論じてまいります。
まず外野の旧家、鴨志田氏の由緒が家伝と全く違う。とは言ってもどちらの由緒も素晴らしいものです。こちらの鴨志田家は戦国時代は佐竹氏家臣で後に帰農、名主となった家です。
私の先祖も佐竹氏家臣(足軽か下級武士)で秋田国替の後に帰農、江戸中期に水戸藩の足軽になりました。なので鴨志田家とは間違いなく繋がりがあります。
外野村と言えば鴨志田氏、平野氏、立原氏の縄張りです。持っている土地から察するに親分は鴨志田氏、子分が平野、立原だと思います。
とは言っても戦国時代で鴨志田氏の家臣だったのか、それとも江戸氏没落や佐竹氏国替のタイミングで外野村に平野立原が来たのかは分かりません。
そして大宮(部垂)の立原家。この記述にはシビれましたが当時の大宮立原家をルーツする方々はひっくり返った事でしょう。
大宮(部垂)立原家については後日論じてみたいと思います。
では、「家系本末鈔」と家伝の系図はどちらが正しいでしょうか?
私は家系本末鈔が正しいと思います。家によりますが表向きの飾り由緒と、本当の本当の由緒があると思います。そして飾り由緒は村の人々に対してのものですが、家系本末鈔は公です。矛盾のないように受け継がれてきた口伝を披露したのではないでしょうか。
鹿嶋の神官の立原氏も水戸鹿嶋の四家以外は外姓と言っていたそうです。
もしそれが本当ならば立原氏=平氏ではなく、源氏も藤原氏もいっぱいいるようです。
(秋田県公文書館より引用)
佐竹氏が秋田へ国替えの時に着いて行った立原氏は私が知る限りでは五人です。
一人は茨城へ帰ってきました。
部垂(大宮)の庄屋、郷士となった立原氏。
一人は上記の分家の立原右近(義久)。大館に行ったとの記述あり。
一人は常陸大宮市野上の立原半六ですが…秋田には行ってないようでした。
一人は私がいつも取り上げております小野岡家臣の立原家です。
一人は佐竹家臣の立原茂兵衛です。
「茂」のくずし字はよく間違えられています。茂兵衛で間違いありません。
とりあえず確実な資料と不確実な資料を合わせて系図を書いてみました↓
茂兵衛 富敬、正保三年(1646)没
六郎左衛門 富常 万治四没1661)没
弥一郎 富勝 元禄七年(1694)没
弥五兵衛 富菊(兄)
惣左衛門 信詮(弟)
兵左衛門 明和二年(1765)宝暦13年(1763)
安永四年(1775)天明五年(1785)寛政11年(1799)
これらの年代に記録有り。
兵左衛門 富定 寛政五年(1793)記録有り
兵左衛門 富生 文化15年(1818)記録有り
↑祖父甚蔵 明治25年(1892)没
任 昭和6年(1931)没
分家↓
立原及助 信令(富勝の弟)
↓子孫?
立原及之助 天和三年(1683)記録有り
↓子
立原官蔵 文政五年 記録有り
↓子
立原源之助 安政二年(1855)記録有り
分家?本家?
忠蔵 富忠 明治元年(1868)記録有り
先日の立原任博士を記事にしたブログではこちらの立原家は源右衛門をルーツとしており、弟は水戸に残り水戸徳川家に仕えた源次郎がいると記されておりました。その子孫は千葉氏や友部氏と縁者とも。たしかに水戸の立原家(翠軒の流れ)には千葉氏や友部氏と縁がありますし、室町後期の先祖には源左衛門がいます。しかし秋田に行ったのは茂兵衛であり、立原翠軒の戦国時代末期の先祖は源次郎という名前ではありません。
「立原村鑑」に記されたの立原禮幹氏の手紙の内容によると、秋田藩士立原茂兵衛の子孫は明治初期にルーツを探っていたようですが、本姓も分からずに困っていたようです。ちょうどその頃の当主は立原甚蔵氏(立原任博士の父)の代でしょう。
と言うことは後に先祖調査が上手くいき、ルーツの情報を得て息子の立原任博士に伝えたのでしょう。
いやしかしここで気になるのは立原翠軒の先祖も立原任博士の先祖も通称に「源」が付くことに驚きます。大掾系図にしても小野岡家臣立原系図にしても立原村立原家系図にしても平氏立原家は通称に「平」とか「五郎」をつけたがると思います。やはり大宮郷士の立原家の家伝の通り立原翠軒の先祖はこちらの分家であり、佐竹義人の庶子を養子に入れた立原家の流れなのかもしれません。となると「家系本末鈔」の通りであれば、茨城県立原家の数十パーセントは「藤原氏」となります。もしくは立原顕幹流の系図通りであれば、源氏を名乗る立原家も多いでしょう。
バリバリの「平氏」立原家の家紋は「橘」ですね。
「藤紋」の立原家は平氏ですが何故藤なのかは分かりません。私の憶測ですが、藤原姓宍戸家より養子を入れたためか、どうなんでしょう。
話を戻しますが佐竹藩家臣立原家の家紋は「五木瓜釘抜き」です。茨城県立原家には見ない家紋です。
しかし水戸藩士立原家は立原翠軒流、立原源太兵衛流以外にも目立たないけど結構居ます。拙家は橘紋のままです。以前コメントくださった立原翠十様及びご先祖様(水戸藩の士分)の家紋は藤です。日立市の諏訪や十王の方は水戸藩士の証の三盛亀甲花菱平東です。
もしかしたらこれらの立原家の中に秋田藩士立原家のルーツがあるのかもしれません。替紋やら裏紋が昔はあった分けです。
さてさて、これ以上はもう分かりません。また後日アップします。
今年の立原家調査プロジェクトですが…
①秋田藩士立原家の子孫の方にアンケートをお願いする
②行方郡、鹿島郡の立原家にアンケートをお願いする
では、これにて秋田藩士立原家の調査は一旦終了とします。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
さて、久しぶりに立原家を新発見いたしました。
画像の立原仁氏は秋田県士族で大変有名な方のようです。文章にもあるように水戸藩士の立原仁とは違います。
そもそも秋田藩の立原家はウィキペディアにもあるように2家だと思っておりましたが、秋田県の士族や卒族の名簿を見てみますと3~4家はありそうです。もしかしたら分家しての記録かもしれませんが、3家は住所も違うし、その内の2家は系図も別々にあります。
そこで大変気になるのはこちら立原仁氏のご先祖様です。佐竹氏秋田へ国替の時に兄の立原源太右衛門は秋田へ。弟の立原源次郎は水戸徳川家に仕えるとあります。私はどちらのお名前も初めて知りました。名前から察するに源氏の立原家かもしれません。源氏の立原家といえば尼子家臣で後に水戸徳川家に仕えた立原源太兵衛や、戦国期の佐竹氏家臣の立原筑後の一族がおります。
もしくは水戸藩士立原家で私がまだ知らない家系があるのかもしれません。そう言えば日立の立原家も三盛亀甲紋でした。
頑張って探って行きたいですね!
しかし部垂(大宮)立原家は替紋は佐竹氏と同じです。
また、尼子家臣で後に水戸藩士となった立原家(源氏)は、出雲地方の立原氏が菱紋を用いてると文献にあったので恐らくはそれが元の紋かと思われます。しかし出雲の立原源太兵衛は尼子氏と同じ紋を用いていたと云います。と言うことは落武者となった時に立原一族は菱に変えたのでしょうか?とにかく出雲立原源太兵衛の末裔の水戸立原源太兵衛は亀甲紋です。
立原村立原本家は「丸に下がり藤」です。何故でしょうか、とある水戸藩士の立原氏は丸の無い「下がり藤」ですし、水戸市鯉淵の立原家は丸の無い「上がり藤」です。
とは言ってみたものの家紋ルールは適当なようで、カッコいいから丸付けちゃいましたという事もあるそうです。
私の推しの小幡立原家の替紋は分かりません。お話を伺った時はまだ私の家紋の知識が浅かったため、聞き逃してしまいました。
もし替紋やら古い古文書に丸無しのシンプル橘紋が描かれておりましたら立原総本家確定です。小幡村の北には長岡村立原家(橘紋)、南には柴高村立原家(橘紋)が居り、間にいる小幡立原家も橘紋だったと推測できます。
ちなみに長岡、柴高は丸の有る橘紋で、足(根)が有ったり無かったりです。
もっと水戸方面に行くと水戸市飯島、鯉淵、高野も同じく橘紋で足(根)が有ったり無かったりです。
そして更に北西に行くと(多分北西)栗崎の立原一族が居ります。栗崎の立原氏は戦国時代から江戸時代にかけて一家系しか残っておらず、その流れに立原翠軒がいます。元の紋は何だったのか?…恐らくは橘紋だと思います。何故かと言いますと立原翠軒の子孫の分家が丸に橘だからです。また、戦国時代に枝分かれした水戸市下大野立原家も橘紋だからです。
しかしここで悩むのが、栗崎立原家は大宮立原家の室町期の分家だという明治時代の立原氏の主張があります。となると立原氏の多くは立原顕幹流もしくは藤原氏の流れとなります。
まぁ確かに常陸大宮の立原家は橘ではなく三つ巴です。この巴が行方立原家の二つ巴と関係あるかどうかは分かりません。
その他にも沢山の種類の家紋を立原姓の方々は用いております。
埼玉県には鷹の羽
広島県には…まだ分かりません。しかし超有名な花井卓蔵氏の実家でありサッカー選手の立原元夫氏が居ます。
秋田県には橘の他、釘抜き紋(立原茂兵衛の家系かと思われます)がございます。
茨城県鹿島郡、行方郡には多様な紋がございます。
恐らくは立原城主家(初代~八代)の紋は橘だったのでしょう。しかも秋田県士族立原家と同じ丸の無い、橘の実の筋が四本の橘紋だった筈です。
まったくの私の憶測ですが。
小幡立原家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原幹堅(傳兵衛)
・
・(数代)
・
立原通幹(式部少輔)
↓
現当主へと続きます。
柏井郡司家ですと
立原詮幹(平六)
↓
立原忠幹(六郎)
↓
立原忠行(七郎)
立原忠能(七郎左衛門)
↓
現当主へと続きます。
さて、どちらが嫡流でしょうか?もしくは他に兄弟がいてそちらが嫡流ってことも有り得ます。しかしそれならば江戸時代に取り上げられているでしょう。
城を出たという記述があるのでおそらく幹堅は江戸氏か大掾氏を頼ったのでしょう。立原家ではもうこの頃は鹿嶋氏から離れ、大掾氏、江戸氏、佐竹氏に仕える者も結構いたみたいです。
もし幹堅が城を出た時期が明徳の頃から上杉禅秀の乱(1416)のタイミングでしたらこの頃小幡村は立原内記という武士が居たと思われます。格式の高い親戚(本家)が頼ってきたらどうでしょうか?もしくは幹堅が上杉禅秀の乱よりずっと前に城を出ていたとしたらどうでしょうか?秋田県士族立原系図によりますと九代目は立原幹盛が佐竹義人に仕えていたようです。佐竹義人は(1400-1468)です。ということは立原本家の七代目詮幹、八代目幹堅や忠幹も立原領地を没収された上杉禅秀の乱より前の人物の可能性が高くなります。
私としては立原幹堅が八代目城主で、禅秀の乱により領地没収され、その後江戸氏家臣立原内記を頼ったとするストーリーが納得いきます。しかし立原幹堅が生きた時代が禅秀の乱よりもっと前ですと、江戸氏家臣立原内記は=立原幹堅の可能性もありますね。ということは立原幹堅は城主及び本家ではないと言うことになります。
ちなみに内記は官職名、幹堅は諱です。
小幡に居た立原氏の子孫は「式部少輔」の官位(武家官位)を用います。この官位は立原氏では一番格式が高いです。
貫高は75貫、同村同姓の伊賀には25貫。この貫高は立原家的に超有名な栗崎立原氏の貫高と同じです。
一方の八代目立原忠幹は鹿嶋の地に残ったと推測できます。孫の立原忠能(七郎左衛門)は鹿嶋氏重臣の松本備前守に仕えていたそうです。
ということは立原家嫡流は立原忠幹の流れかもしれません。鹿嶋の地に残り、鹿嶋氏重臣に仕え、後に笠間藩に仕え、帰農して名字を変えた。
そこで引っ掛かるのは名字を変えた事です。本家嫡流であれば太平の世にわざわざ名字を変えるとは思えません。それに諱や通称の規則性からしてこちらが嫡流とは考えにくいです。
さて、今回も謎のまま終わってしまいまして申し訳ありません。
久幹、嫡流でしたら、
左の久は親だかお爺さんだか烏帽子親だかが決めたり、偉い人から名前一文字を貰ったりするそうです。右の幹は通字と言って先祖代々や一族で使ったりするそうです。しかし跡継ぎじゃない兄弟は通り字を左につける習慣もあるそうです。
例えば→幹久
とは言ったものの調べてみると左右(先後)に決まりは無いみたいです。しかし偉い人から貰う文字は最初に付けるようになっていったそうです。
常陸平氏の初期は右(後)に通字が圧倒的に多い気がします。
大掾氏は終始通り字は右(後)だった気がします。
通称にもちょっとした法則がありまして、立原嫡流家の三代から七代ですと…
三代目→兼幹(小五郎)←五郎じいさんの嫡孫
四代目→重幹(五郎太)←家祖(五郎)の嫡孫
五代目→武幹(小平太)←嫡男(平は平氏だよってことかな?)
六代目→定幹(平太)←同上
七代目→詮幹(平六)←なぜ六なのか謎です
こんな感じです。
タイトルにはこの城主等について何か分かっているような書き方ですが、こちら方々の情報はほぼありません。
僅かな情報は鹿嶋大使役を元享1年(1321)と至徳1年(1384)立原氏が務めたという事です。
前者ですと5~7代、後者は7代以降だと思われます。
この鹿嶋大使役は應永11年(1404)まで行われており、私の憶測ですが常陸平氏が集まり交流があったに違いありません。故に立原家も七代までは記録に残っているのかもしれません。
そして1416年に上杉禅秀の乱があり、立原嫡家は上杉禅秀に加担し、そして負け、立原の地は行方氏から烟田氏に渡ったのでしょう。
それを機に七代目当主の立原詮幹の息子達は城を出たのだと思います。
ちなみにですが私が調べる限りでは立原の地は農業で大儲けは難しく、出て行った立原氏が土着した農地は立原村よりよっぽど儲かると思います。
大掾系図等の通説に寄りますと諱が盛幹で通称が五郎次郎。当時の輩行名のルールですと五郎お父さんから生まれた次男と言うことになります。兄弟がいて繁幹と云い、通称は三郎。この人は後に春秋村の領して春秋氏となります。しかし他の春秋氏を記した文献によりますとちょっと違う系図になっています。これはとりあえず置いておきます。
ちなみに烟田文書によりますと鎌倉時代当時は長男が跡継ぎという考え方と、父親が決めた能力のある男子が跡継ぎになるという考え方があったそうで、鎌倉幕府は烟田家に対して後者を指示したそうです。
秋田県士族の立原系図ですと二代目は盛朝で五郎四郎。本家か分家は記されておりません。
立原村立原系図ですと盛幹で四郎五郎。
大宮郷士の立原系図ですと初代が顕幹で通称が雅楽亮、二代目は道幹で通称は太郎。
これで輩行名は1、2、3、4と揃いました。
しかし秋田県士族の立原禮幹氏の説ですと、盛朝=盛幹かもしれないようです。
私的には盛幹は次男で盛朝は四男、初代久幹に四人男子がいたと思いたいです。軍事貴族として側室、妾は当然いたでしょう。有名な初代ほど子供が多いはずです。久幹の父、鹿嶋成幹は公式な男子が六人もいるわけですし。
大宮郷士の立原系図の立原顕幹は立原久幹の書き誤りではないでしょうか?こちらの系図が最初にまとめられたのは室町中期のようです。その後江戸中期に再び書き上げられた物を私は拝見いたしました。
もしくは「家系本末鈔」によりますと大宮の立原氏のルーツは藤原氏のようです。近畿の立原村を領した折り名字になったそうです。
鹿島の神社関係の立原氏は外姓の立原氏がいると云ってたそうです。
これはじっくり研究してから答えを出したいです。
茨城県立原家の1/3は平姓から藤原姓となる可能性があります。
さて、二代目が何をしていたかさっぱり分かりません。私の汚い字で申し訳ないのですが、同族での同じ代数を並べてみました。立原久幹にとって兄の鹿嶋政幹は歳がそんなに離れていないとすると立原盛幹は鹿嶋家と共に源平の戦に出陣したと思われますが、出陣したのは「立原四郎」とありますので弟の盛朝なのか、それとも盛幹=盛朝なのか。しかしだとすると四郎にとって三郎の兄がいるのに家督は弟が継ぐのか?それに太郎、次郎はどこ行った?と思います。
やはり立原五郎平久幹の次男は盛幹、三男は繁幹、四男は盛朝、と思いたいです。
厳密に言えば次男三男は正室の男子。その他は側室か妾の男子と考えれば納得できます。
それならば本家分家の三代目以降の輩行名に矛盾が無いと思います。
まずは立原村立原家の家伝によりますと、立原久幹はこの地に住んでいた立原家の娘と結婚して婿入りして、鹿嶋久幹→立原久幹となったそうです。となると初代ではなくなりますが、大掾一族の立原姓初代ってことで考えてます。
70貫の地を領してたようです。武幹があって家声頗る振るう、とあります。こちらの家伝では久幹は「五郎四郎」と名乗っていたそうです。
五郎四郎は普通だと五男の父の四男ということになります。久幹の父、成幹は三男で三郎ですが他の文献や系図によると五男ともあります。
久保田藩の立原系図ですと五郎四郎は久幹の息子、盛朝です。ちなみに通説の二代目は五郎次郎(盛幹)です。立原村の文書ですと二代目盛幹は四郎五郎です。ややこしいですね。はたして盛朝=盛幹でしょうか?五郎四郎=五郎次郎=四郎五郎でしょうか?これは次回考えます。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
鹿嶋誌によりますと立原四郎という武士が鹿嶋氏と共に出兵したそうですが、この四郎が久幹なのか盛幹なのか盛朝なのかは分かりません。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
部垂(大宮)の郷士の立原系図によりますと名前は違いますが初代立原氏は500貫を領していたとあります。
時代によって石高や貫高のレートは違いますが、旧和村及び周辺の村々の字とそこの各時代の領主の貫高石高を調べれは大体の貫高は分かるかもしれませんね。
烟田文書によると「文幹」とありますが崩した久の字が文に見間違えたんだと私は思います。
息子が二人いたそうで先ほどの盛幹(五郎次郎)、繁幹(三郎)です。繁幹は春秋の地を貰って春秋氏を名乗ります。しかし春秋氏は違うルーツの文献もありますので今度書きます。
新編常陸国誌によりますと繁幹の子供に久幹がいて、その人が春秋氏になったとありますが、繁幹と久幹を逆に書いてしまったんだと思います。
さて、私が初代立原氏について分かるのはこの程度です。墓が有るのか無いのか、戒名が有るのか無いのかも分かりません。それ故嫡流も分からないわけです。
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
嫡流、本家、総本家、宗家等々色々言い方がありますが、微妙に時と場合で捉え方がちょっと違う気がします、私的に。詳しくはWikipediaやGoogleでご判断くださいませ。
私の探している立原氏の嫡流とは名字の始まりである久幹からバトンを渡された者が嫡子であり、それ以降そのバトンを渡され続ける流れが嫡流だと思っております。家祖、立原五郎久幹が嫡男の五郎次郎盛幹に渡したバトンの内容は領地、城主の身分と職業、祭祀権、財産等でしょうか。
それが何代かして1416年の禅秀の乱で負けたので領地没収となったそうです。
その後の嫡流はよく分かりません。
廃城の跡地に住んで土地を守った者が本家なのか。
城を出てどこかの領主に仕官して成功した者が長者となり本家なのか。
どこかの村へ逃げ隠れ帰農したが城主の父より跡継ぎとされていて、諱も継いだ者が本家なのか。
とにかく七代目の立原平六詮幹が最後の城主かどうか、子供達はどこへ行ったのか考えていきたいです。
藤原姓一木家の家紋は「丸に真向かい月」のようです。
八田知家公のご子孫で立原家に養子入りしたようです。ご子孫は水戸市にお住まいですが一木氏の嫡流かどうかはわかりません。古河市の一木家はルーツは平氏で家紋も違います。別系統です。
藤紋立原家の家紋は下がり藤と月に星ですので、やはり関係はあるのでしょう。
立原村立原家の家紋が「月に星」でしたら、一木家が丸の付いた家紋なのはおかしいです。
おそらくは嫡流一木家は月に星を用いり、立原村立原家は高貴な一木より養子を迎え、一木家本姓である藤原氏の「下がり藤」、一木家の「星」系の紋を用いたのでしょうか。
宍戸氏系列の一木氏のどこかに「丸」のない「真向かい月」があるのかもしれません。
先日コメントくださったsuito様の家系調査が一段落して改めて思ったのは「平姓立原家の藤紋」の所以でした。
立原家の家紋で圧倒的に多いのは橘紋ですが、続いて亀甲や藤が多いです。
立原村の字、「館」にお住まいの立原宗家及び周辺立原家も藤紋です。これは一重に室町時代中期に藤原姓宍戸家から養子を入れたからでしょう。
鎌倉時代の立原家は弱小武家かと思います。血筋は良いのですが領地は狭く、貧弱だったと思います。
宗家の鹿島氏に引っ付いていたけれども、南北朝時代の総本家、大掾氏の曖昧な態度に加え、小さな村と痩せた領地にあぶれた分家立原氏は立原村を出て行ったと思われます。
残った立原家は室町時代に宍戸家(一木氏)より養子を迎えた様です。この頃の立原家と宍戸家では武家ランクが大分違うかと思われます。ちなみに出て行った立原家は佐竹氏や江戸氏に仕え、各地で活躍している時です。
そしてその宍戸家一門、一木氏は本姓藤原氏であり家紋は「日月」の様です。
立原村の鎮守神社は日月神社です。立原村立原家の家紋は「下がり藤」と「月に星」です。「月に星」は日月紋と同系列の家紋だと思います。
さて、立原家の家紋の変化と言えば「丸に三盛亀甲花菱」ですが、以前も記しましたがこちらは水戸藩より拝領の紋で間違いありません。
しかし面白いのは、常陸大宮市(本家は水戸市在住)の旧家(郷士)は定紋は亀甲で、替紋は「五本骨扇に月丸」です。
それはすなわち系図によると室町時代に佐竹氏より養子を迎えたからです。その子孫は「立原翠軒」の家系にも繋がる家柄です。しかし立原翠軒の分家、末流の立原家が橘紋を用いてるところから、本来の家紋も残していたのでしょう。
上記の立原顕幹の嫡流家は室町時代までは本姓を「源」としていたそうです。
ということは立原村立原家も「藤原」を意識していたと思います。
では立原総本家はどこに行ったのでしょう?
私も分かりませんが次回に綴りたいと思います。

