茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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P R
(秋田県公文書館より引用)
佐竹氏が秋田へ国替えの時に着いて行った立原氏は私が知る限りでは五人です。
一人は茨城へ帰ってきました。
部垂(大宮)の庄屋、郷士となった立原氏。
一人は上記の分家の立原右近(義久)。大館に行ったとの記述あり。
一人は常陸大宮市野上の立原半六ですが…秋田には行ってないようでした。
一人は私がいつも取り上げております小野岡家臣の立原家です。
一人は佐竹家臣の立原茂兵衛です。
「茂」のくずし字はよく間違えられています。茂兵衛で間違いありません。
とりあえず確実な資料と不確実な資料を合わせて系図を書いてみました↓
茂兵衛 富敬、正保三年(1646)没
六郎左衛門 富常 万治四没1661)没
弥一郎 富勝 元禄七年(1694)没
弥五兵衛 富菊(兄)
惣左衛門 信詮(弟)
兵左衛門 明和二年(1765)宝暦13年(1763)
安永四年(1775)天明五年(1785)寛政11年(1799)
これらの年代に記録有り。
兵左衛門 富定 寛政五年(1793)記録有り
兵左衛門 富生 文化15年(1818)記録有り
↑祖父甚蔵 明治25年(1892)没
任 昭和6年(1931)没
分家↓
立原及助 信令(富勝の弟)
↓子孫?
立原及之助 天和三年(1683)記録有り
↓子
立原官蔵 文政五年 記録有り
↓子
立原源之助 安政二年(1855)記録有り
分家?本家?
忠蔵 富忠 明治元年(1868)記録有り
先日の立原任博士を記事にしたブログではこちらの立原家は源右衛門をルーツとしており、弟は水戸に残り水戸徳川家に仕えた源次郎がいると記されておりました。その子孫は千葉氏や友部氏と縁者とも。たしかに水戸の立原家(翠軒の流れ)には千葉氏や友部氏と縁がありますし、室町後期の先祖には源左衛門がいます。しかし秋田に行ったのは茂兵衛であり、立原翠軒の戦国時代末期の先祖は源次郎という名前ではありません。
「立原村鑑」に記されたの立原禮幹氏の手紙の内容によると、秋田藩士立原茂兵衛の子孫は明治初期にルーツを探っていたようですが、本姓も分からずに困っていたようです。ちょうどその頃の当主は立原甚蔵氏(立原任博士の父)の代でしょう。
と言うことは後に先祖調査が上手くいき、ルーツの情報を得て息子の立原任博士に伝えたのでしょう。
いやしかしここで気になるのは立原翠軒の先祖も立原任博士の先祖も通称に「源」が付くことに驚きます。大掾系図にしても小野岡家臣立原系図にしても立原村立原家系図にしても平氏立原家は通称に「平」とか「五郎」をつけたがると思います。やはり大宮郷士の立原家の家伝の通り立原翠軒の先祖はこちらの分家であり、佐竹義人の庶子を養子に入れた立原家の流れなのかもしれません。となると「家系本末鈔」の通りであれば、茨城県立原家の数十パーセントは「藤原氏」となります。もしくは立原顕幹流の系図通りであれば、源氏を名乗る立原家も多いでしょう。
バリバリの「平氏」立原家の家紋は「橘」ですね。
「藤紋」の立原家は平氏ですが何故藤なのかは分かりません。私の憶測ですが、藤原姓宍戸家より養子を入れたためか、どうなんでしょう。
話を戻しますが佐竹藩家臣立原家の家紋は「五木瓜釘抜き」です。茨城県立原家には見ない家紋です。
しかし水戸藩士立原家は立原翠軒流、立原源太兵衛流以外にも目立たないけど結構居ます。拙家は橘紋のままです。以前コメントくださった立原翠十様及びご先祖様(水戸藩の士分)の家紋は藤です。日立市の諏訪や十王の方は水戸藩士の証の三盛亀甲花菱平東です。
もしかしたらこれらの立原家の中に秋田藩士立原家のルーツがあるのかもしれません。替紋やら裏紋が昔はあった分けです。
さてさて、これ以上はもう分かりません。また後日アップします。
今年の立原家調査プロジェクトですが…
①秋田藩士立原家の子孫の方にアンケートをお願いする
②行方郡、鹿島郡の立原家にアンケートをお願いする
では、これにて秋田藩士立原家の調査は一旦終了とします。
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