茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
最新記事
(09/27)
(09/27)
(08/14)
(06/27)
(06/11)
P R
先祖調査ウェブサイトを見てますと『郷土史家の力を借りる』という内容が書かれております。
僕も調査を始めて三年になりますがこの度僕も郷土史家様の力をお借りしました。
僕の家系が270年前に分家しました時の本家が茨城県H市にあります。本家の墓地を調べてますと他家に立派な墓地がありました。何か情報を得られまいかと塔婆に記されてます現当主の方の名前をメモりまして郷土史、ネット等で調べましたところ郷土史家かと思われます。それを知ったのはその方にお手紙をお出しした後でした。
その後、その方から返信の手紙、お電話を頂きましたがとてもとても親切な方で感動致しました。
その方は僕と名字はちがいますが立原の血も入っているようで遠い遠い遠戚となります。マニアックな話も聞けまして感謝感謝です。
やはり郷土史家というのはその地域を愛し、地域を研究し、後世に伝える志の高い方々ですので、僕のような個人の者にも力添えしてくれるのかもしれません。
心より感謝申し上げます。
僕も調査を始めて三年になりますがこの度僕も郷土史家様の力をお借りしました。
僕の家系が270年前に分家しました時の本家が茨城県H市にあります。本家の墓地を調べてますと他家に立派な墓地がありました。何か情報を得られまいかと塔婆に記されてます現当主の方の名前をメモりまして郷土史、ネット等で調べましたところ郷土史家かと思われます。それを知ったのはその方にお手紙をお出しした後でした。
その後、その方から返信の手紙、お電話を頂きましたがとてもとても親切な方で感動致しました。
その方は僕と名字はちがいますが立原の血も入っているようで遠い遠い遠戚となります。マニアックな話も聞けまして感謝感謝です。
やはり郷土史家というのはその地域を愛し、地域を研究し、後世に伝える志の高い方々ですので、僕のような個人の者にも力添えしてくれるのかもしれません。
心より感謝申し上げます。
PR
昔はよく火事がありました。
僕が江戸時代以降の御本家の方々に伺いましたところ、丸に橘紋(佐竹氏家臣)の常陸大宮市住まいの立原家の家系図は明治頃には確かにあったそうです。しかしいつの間にか無くなってしまったそうです。文献にもよく載っているメジャーな立原家ですが何故かWikipediaにはまだ載ってません。
次に、ひたちなか市の僕の本家のお隣さんの本家の当主の方から御教示頂きました。家紋は常陸大宮市の家紋と全く同じです(丸に菊座橘)。何代か前に火事により、家系図、古文書類は燃えてしまったそうです。家紋も由緒も常陸大宮市の本家と同じです。きっと江戸時代に入り、佐竹氏についても行けず、かといって常陸大宮市の本家の土地にもいられず、戦友の鴨志田氏を頼ってひたちなか市で農となったのでしょうか?
ちなみにですが、なんの証拠もなく憶測でありますが常陸大宮市の立原氏とひたちなか市の立原氏を同族と推測するのには訳があります。
まず由緒が同じ。佐竹氏家臣後帰農。
次に家紋がまったく同じ。どちらが上か下かわかりませんが菊座橘と久世橘が見受けられます。しかし本家分家共に時代の流れ、興味の無さからでしょうか、現在は皆『丸に橘』になっていってる気がします。
次に先日もご紹介しましたが三つ盛り亀甲の立原本家です。やはり古文書類が燃えたか無くなったかで江戸後期に改めて由緒を書いてます。
ということは当時の当主は由緒等を記憶していたのでしょうね。
僕が江戸時代以降の御本家の方々に伺いましたところ、丸に橘紋(佐竹氏家臣)の常陸大宮市住まいの立原家の家系図は明治頃には確かにあったそうです。しかしいつの間にか無くなってしまったそうです。文献にもよく載っているメジャーな立原家ですが何故かWikipediaにはまだ載ってません。
次に、ひたちなか市の僕の本家のお隣さんの本家の当主の方から御教示頂きました。家紋は常陸大宮市の家紋と全く同じです(丸に菊座橘)。何代か前に火事により、家系図、古文書類は燃えてしまったそうです。家紋も由緒も常陸大宮市の本家と同じです。きっと江戸時代に入り、佐竹氏についても行けず、かといって常陸大宮市の本家の土地にもいられず、戦友の鴨志田氏を頼ってひたちなか市で農となったのでしょうか?
ちなみにですが、なんの証拠もなく憶測でありますが常陸大宮市の立原氏とひたちなか市の立原氏を同族と推測するのには訳があります。
まず由緒が同じ。佐竹氏家臣後帰農。
次に家紋がまったく同じ。どちらが上か下かわかりませんが菊座橘と久世橘が見受けられます。しかし本家分家共に時代の流れ、興味の無さからでしょうか、現在は皆『丸に橘』になっていってる気がします。
次に先日もご紹介しましたが三つ盛り亀甲の立原本家です。やはり古文書類が燃えたか無くなったかで江戸後期に改めて由緒を書いてます。
ということは当時の当主は由緒等を記憶していたのでしょうね。
家紋、三つ盛亀甲の立原氏の総本家らしき方にお手紙をお出ししましたら、親切丁寧にご返事、ご教示頂きました。
どの文献にも掲載されていない(多分です)三つ盛り亀甲の立原氏の祖、すなわち当時の立原城主の子の名が記されており大変驚きました。
プライバシー的にあまり詳しく記述できませんが、この方の家系は鎌倉時代に立原城を出て、戦国時代には江戸氏の家臣です(Wikipediaにも載ってます)。江戸時代初期は帰農し、徳川光國公により郷士になります。幕末の水戸藩の名簿にも掲載されており、明治に入り士族に。現当主の方も大変立派な方で茨城県の紳士録(人名録?)にも掲載されておりました。
三つ盛亀甲の立原氏は常陸太田市にも本家筋がありましてどちらが本家かわかりません。
立原翠軒公、立原道造氏も三つ盛亀甲ですが亀甲紋の中が『花』だけでなく『平』『東』と刻まれております。故にどちらかの分家かと思われます。翠軒公の本家が『茨城県民のルーツ』という本に掲載されてました。翠軒公は立原家の中で一番メジャーなのでWikipediaにも角川地名辞典にも系図が載ってます。
きっとまだまだ立原氏の情報を持っている方々が茨城県と秋田県にはいるかと思われます。もっともっと追求していきたいですね。
どの文献にも掲載されていない(多分です)三つ盛り亀甲の立原氏の祖、すなわち当時の立原城主の子の名が記されており大変驚きました。
プライバシー的にあまり詳しく記述できませんが、この方の家系は鎌倉時代に立原城を出て、戦国時代には江戸氏の家臣です(Wikipediaにも載ってます)。江戸時代初期は帰農し、徳川光國公により郷士になります。幕末の水戸藩の名簿にも掲載されており、明治に入り士族に。現当主の方も大変立派な方で茨城県の紳士録(人名録?)にも掲載されておりました。
三つ盛亀甲の立原氏は常陸太田市にも本家筋がありましてどちらが本家かわかりません。
立原翠軒公、立原道造氏も三つ盛亀甲ですが亀甲紋の中が『花』だけでなく『平』『東』と刻まれております。故にどちらかの分家かと思われます。翠軒公の本家が『茨城県民のルーツ』という本に掲載されてました。翠軒公は立原家の中で一番メジャーなのでWikipediaにも角川地名辞典にも系図が載ってます。
きっとまだまだ立原氏の情報を持っている方々が茨城県と秋田県にはいるかと思われます。もっともっと追求していきたいですね。

