茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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立原城跡、立原村の方々と棚木村の方々は
「丸に下がり藤」
でして、一軒だけ
「丸に上がり藤」
でした。
鹿嶋市の中心地の宮中は
「丸に橘」
でした。
立原村は鹿島神宮に近いですが、鹿島神宮に仕えた立原家は橘紋。
橘紋立原家は茨城県に多く見られますが、藤紋立原家は少なく、立原村、棚木、水戸市鯉淵、水戸市千波、水戸藩士墓地、にて見受けられました。
これは
藤紋=平貞盛流立原家
橘紋=平繁盛流(大掾一族)立原家
なのかもしれません。
しかし謎なのが千波と鯉淵は確か丸無しの家紋でした。
丸無し家紋は旧家中の旧家です。
立原村や近所の棚木が丸有りの藤紋なのは不思議です。何か理由があるのかウッカリなのか。
「丸に下がり藤」
でして、一軒だけ
「丸に上がり藤」
でした。
鹿嶋市の中心地の宮中は
「丸に橘」
でした。
立原村は鹿島神宮に近いですが、鹿島神宮に仕えた立原家は橘紋。
橘紋立原家は茨城県に多く見られますが、藤紋立原家は少なく、立原村、棚木、水戸市鯉淵、水戸市千波、水戸藩士墓地、にて見受けられました。
これは
藤紋=平貞盛流立原家
橘紋=平繁盛流(大掾一族)立原家
なのかもしれません。
しかし謎なのが千波と鯉淵は確か丸無しの家紋でした。
丸無し家紋は旧家中の旧家です。
立原村や近所の棚木が丸有りの藤紋なのは不思議です。何か理由があるのかウッカリなのか。
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(国立国会図書館デジタルより引用)
通説で言えば立原家は
平貞盛の弟の平繁盛の嫡流の多気氏の分家、吉田氏からの更に分家の鹿嶋成幹の五男が立原五郎となったとされています。
しかし、立原総本家系図によりますと、平貞盛の子孫が立原を名乗り、繁盛流の鹿嶋久幹(立原五郎)を婿養子にしたとあります。そして通説の系図では久幹→盛幹→兼幹→重幹と続きますが総本家系図ですと久幹→盛幹→近忠→近清となります。
もちろん秋田立原系図も立原顕幹流系図も異なります。ただ、私が言ってきました「小幡立原が嫡流説」の理由は諱に「幹」を気れ目なく襲名し、通称は「五郎」を基準としながら嫡子ならではの名付け「太、小」等が用いられてるからです。それに小幡立原は水戸藩から最も認められてたと思われます。
しかし立原総本家はそもそも襲名している諱は「幹」ではありません。「近」「貞」「俊」が見受けられます。通称は「四郎」を大切にしてるようです。
ここで立原アイデンティティーは二つに別れると思いました。
貞盛流の立原氏嫡流は間違いなく立原総本家です。
しかしそこで一つ気になる事が出てきました。
続く
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
この方がいなければ立原家の歴史は謎のまま闇に消えて行った事でしょう。
立原平四郎氏は立原村本家、立原氏総本家であり、その歴史と系図、古文書を惜しみなく公表してくださいました。今、私がこうして立原家調査が出来ているの、平四郎氏のお陰といっても過言ではありません。
立原氏の創成期を調べる上で避けては通れない家々は
☆鹿嶋旧臣立原村立原家
☆佐竹家臣秋田藩士立原家
☆佐竹旧臣大宮郷士立原家
☆江戸旧臣小幡郷士立原家
こちらの家々にはそれぞれの歴史があり、数多の分家を出してきました。
まずは立原村から書きたいと思います。こちらは立原平四郎氏のお陰で系図の99%が公表されております。
次回より立原平四郎氏が公表してくれた「立原家の由緒」を私なりに綴らせていただきます。
詳しくは国立国会図書館デジタルアーカイブで「立原平四郎略伝」と調べてみてください。
もう一つは「立原村鑑」
こちらは東京大学図書館に原本が有り、茨城県立歴史館に写しがあります。
立原村鑑には立原平四郎氏と秋田藩士立原政蔵氏のお手紙の内容の一部が見れます。
800年の時を越え、同族同姓であるのに主のために殺しあった侍の子孫が明治期にお手紙で再開しているのです。ロマンチックです。
次回は立原平四郎氏が伝えた系図について考えたいと思います。
(国立国会図書館デジタルより引用)
調べましたところどうやら昔から鹿島神宮にお仕えする家柄のようです。
鹿嶋市史や茨城県人名録によりますと、鹿島神宮関連の立原家は何軒かいらっしゃるそうです。
そこで謎なのがこちらの立原家は橘紋だったからです。鹿嶋市の立原家は元立原村の総本家の立原家々と同じく藤紋だと思ってました。
こんな近い距離で紋の違いが出るのですね。
名字は同じでも家紋が違うと言うのは重要で、①そもそも本姓が違うとか、②高貴な身分の方より家紋を拝領したとか、③落武者で変えた等。
①常陸立原と出雲立原は本姓が違いまして家紋は違います。
②「丸に三盛亀甲花菱」は水戸藩より拝領のようです。ゆえに本姓の違う常陸立原も出雲立原も水戸藩士なりますとこちらの紋になったようです。
そこで謎なのが立原村立原家が「丸に下がり藤」だからです。丸付きなのでそんなに古くない家紋でしょうから、やはり鹿島氏から拝領紋なのでは?と推測しております。
③一軒だけ知ってます。そちらは名字も変えてます。
↓鹿嶋市宮中で拝見いたしました立原家紋所になります。墓石の写真では失礼ですので、私の下手な絵をアップいたしました↓
こうして書かないと忘れてしまうので記しておきたいと思います。
一週間から二週間かけて書きたいです。一年位貯めたネタでして私自身頭を整理するためにもまとめていきたいです。
1、「鹿嶋市立原」
2、「立原村の立原家」
3、「秋田藩立原家」
4、「私の立原家」
5、「家祖立原顕幹が立原武幹だったとしたら」
6、「ハローページ終了」
これら書き終えましたら、また立原家調査に集中いたします。
いよいよ秋田藩士の丸の無い橘、家紋が武家で流行った800年以上前から紋所を変えていない立原家のご子孫がなんとなくわかったのでお手紙してみます。
その後、茨城県の北方から順にお手紙したいと思います。
一週間から二週間かけて書きたいです。一年位貯めたネタでして私自身頭を整理するためにもまとめていきたいです。
1、「鹿嶋市立原」
2、「立原村の立原家」
3、「秋田藩立原家」
4、「私の立原家」
5、「家祖立原顕幹が立原武幹だったとしたら」
6、「ハローページ終了」
これら書き終えましたら、また立原家調査に集中いたします。
いよいよ秋田藩士の丸の無い橘、家紋が武家で流行った800年以上前から紋所を変えていない立原家のご子孫がなんとなくわかったのでお手紙してみます。
その後、茨城県の北方から順にお手紙したいと思います。
びっくりしました。てっきり橘だと思っていたので墓前に行って驚いてしまいました。
佐竹氏領の立原家も江戸氏領の立原家もほとんど「橘」でした。しかし水戸藩士墓地の一軒と、水戸市鯉淵町の数軒、水戸市千波町の数軒が「上がり藤」と言うことは常陸武将の江戸氏家臣もしくは領民にも藤紋の立原は居たのでしょう。
はたして上がり藤紋立原家のルーツはどちらなのでしょうか?
やはり立原村(立原城跡)の立原家が「下がり藤」でありますのでそちらがルーツでしょうか?
しかし一つ謎が在りますも
鯉淵と千波には丸無しの上がり藤なんです。
そして立原村の立原家は丸有の上がりと下がりの藤紋でした。
私が知るどの個人所有の立原系図にも記されておりませんし、大掾系図にも、立原村鑑にも、鹿嶋総本家の立原系図にも詳しいことは記されておりません。しかし家紋は真実を隠しているように私は思います。
佐竹氏領の立原家も江戸氏領の立原家もほとんど「橘」でした。しかし水戸藩士墓地の一軒と、水戸市鯉淵町の数軒、水戸市千波町の数軒が「上がり藤」と言うことは常陸武将の江戸氏家臣もしくは領民にも藤紋の立原は居たのでしょう。
はたして上がり藤紋立原家のルーツはどちらなのでしょうか?
やはり立原村(立原城跡)の立原家が「下がり藤」でありますのでそちらがルーツでしょうか?
しかし一つ謎が在りますも
鯉淵と千波には丸無しの上がり藤なんです。
そして立原村の立原家は丸有の上がりと下がりの藤紋でした。
私が知るどの個人所有の立原系図にも記されておりませんし、大掾系図にも、立原村鑑にも、鹿嶋総本家の立原系図にも詳しいことは記されておりません。しかし家紋は真実を隠しているように私は思います。
(ヤフオクより引用。昔の彦根橘のようです。)
まだまだ分からない事だらけですが、わかる範囲で常陸立原家の橘紋についてまとめてみます。
そもそも家紋はシンプルデザインから始まり、分家により変化していくという事を考慮しますと、800年前の立原家橘紋は真壁氏と同じく「橘」(江戸紋、明治になり久世橘と呼ばれる)であり、600年前頃に南北朝や禅秀の乱が起こり、立原の血筋を残すためか、節操が違うためか、食いぶちのためか分かりませんが、佐竹氏に仕える者、大掾氏に仕える者、今のまま鹿嶋氏に従う者に分かれようです。
そのタイミングで橘紋に「根(足、台)」を加えたのでしょうか?
なんせ明治時代に入り、京都家紋マニア集団により家紋は統一されましたし、立原の総本家筋の家々は水戸藩より三盛亀甲紋を拝領し、立原村の立原家は元々「下がり藤」です。
橘紋で一番古いのはやはり秋田立原家ですね。
子孫の方々にアプローチしたいと思います。
しかし茨城立原ミステリーは常陸岩手町にもあります。なんと南北朝争乱期より前に土着してるようです。その御紋は「丸橘」であり根有りです。
今のところ丸の無い立原氏の家紋は秋田立原家のみです。やはり900年一度も百姓を経験しておらず、ずっと武家だったのは秋田藩士の立原家だけです。
丸が無いのは創成期からの紋所だと思われます。
次回は立原村の立原について書きたいと思います。
間違いなく江戸初期までは武士から農民から町人まで自家の紋はわかっていたはずです。
やはり長い長い江戸時代の間に基本となる立原家の定紋も、分家を繰り返し、また分家間でも違いを出すためにオリジナル橘をデザインしたのかもしれません。
そして家紋革命が明治時代に訪れます。京都の家紋関係を生業とする人達が日本全国の多種多様の家紋をある程度まとめる運動をしたそうです。
そして関東の橘紋の基本中の基本デザインの橘は大名の久世家が用いていたためか、「久世橘」と命名されたようです。
橘紋で一番有名な井伊氏も「彦根橘」等と呼ばれるようになりました。多分ですが、井伊家の家紋は紋帳にもよりますが初期は「江戸橘紋」であり、江戸時代に入り、あの変わった橘になったんだと思います。
とにかく明治以降の茨城県橘紋の立原家は家紋がぐちゃぐちゃです。今はほとんどの家が「京橘」になってしまってますが、ちょっと前の世代の墓石にはかなり迷いのある橘紋が見受けられます。
さてさて、私が追い求めております、900年前の元祖立原家橘紋はいったいどんな家紋だったのでしょうか。
やはり長い長い江戸時代の間に基本となる立原家の定紋も、分家を繰り返し、また分家間でも違いを出すためにオリジナル橘をデザインしたのかもしれません。
そして家紋革命が明治時代に訪れます。京都の家紋関係を生業とする人達が日本全国の多種多様の家紋をある程度まとめる運動をしたそうです。
そして関東の橘紋の基本中の基本デザインの橘は大名の久世家が用いていたためか、「久世橘」と命名されたようです。
橘紋で一番有名な井伊氏も「彦根橘」等と呼ばれるようになりました。多分ですが、井伊家の家紋は紋帳にもよりますが初期は「江戸橘紋」であり、江戸時代に入り、あの変わった橘になったんだと思います。
とにかく明治以降の茨城県橘紋の立原家は家紋がぐちゃぐちゃです。今はほとんどの家が「京橘」になってしまってますが、ちょっと前の世代の墓石にはかなり迷いのある橘紋が見受けられます。
さてさて、私が追い求めております、900年前の元祖立原家橘紋はいったいどんな家紋だったのでしょうか。
前回書き間違えた事がありますので訂正させていただきます。
池坊=頂法寺の寺紋を「根無し橘」と書きましたが、家紋研究家丹羽氏の著書「寺紋」には「根なし菊座橘」とあります。すみませんでした。
ある神社は丹羽氏の著書「神紋」には「菊橘」ともあり、やはり現代の「菊座橘」とは関東では「菊橘」、関西では「根なし菊座橘」だったりするのでしょうか。
「菊座橘」にとっての「根」とは台であり、おそらくは花台的な物だったのでしょうか。
そもそも「菊座」は座金の一種であり、家紋の「菊」は座金ではありません。なので橘紋の実に乗っかった菊も座金とは言えません。やはり菊座の「座」は菊橘が乗っかる台としての座ではないでしょうか。
菊=橘に乗っかる花
座=橘の茎の下の台
としたら立原家の家紋の呼び名の「根有橘」はなんなんでしょうか。確かにあれは台というよりは根に見える。そもそも「根」の解釈は立原家に限らず全国の日本人共通の解釈かもしれません。
ゆえに「根なし橘」も立原家に限らず他家も呼んでいるようなので、橘紋の答えは立原家調査だけではダメだと思いました。
菊座=菊の形をした座金…ゆえに「菊座橘」は橘の実の頂点を菊座(座金)にしたデザイン…というのは、私は違うと思います。
「座」は台、花の台だと思います。関東の紋帳で「菊座橘」といえば菊を被せた橘が台の上にある紋です。
有名な三井寺は今で言う「菊座根橘」でして、池坊は今で言う菊座橘を「根無し橘」と云っていたそうです。
と、いうことは本来の菊座橘=
菊と台(座)があるゴージャスな紋
台=座=根の無い菊座橘を「根無し橘」「菊橘」と呼んでいたのかもしれません。
はたして立原一族はなにゆえ「丸に菊座橘」が多いのでしょうか?
次回私の考えを書きたいと思います。
(東京国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
「座」は台、花の台だと思います。関東の紋帳で「菊座橘」といえば菊を被せた橘が台の上にある紋です。
有名な三井寺は今で言う「菊座根橘」でして、池坊は今で言う菊座橘を「根無し橘」と云っていたそうです。
と、いうことは本来の菊座橘=
菊と台(座)があるゴージャスな紋
台=座=根の無い菊座橘を「根無し橘」「菊橘」と呼んでいたのかもしれません。
はたして立原一族はなにゆえ「丸に菊座橘」が多いのでしょうか?
次回私の考えを書きたいと思います。
(東京国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp
今思えば昨年にお伺いさせていただきました下郷立原家のお家に飾られておりました着物の紋も「江戸橘」でした。墓石は丸に菊座橘でした。
何故、江戸橘のネーミングが「久世橘」なのでしょうか。
これはおそらく戦前の京都の家紋大好きおじさん達のせいです。
京都の家紋大好きおじさん達は全国の多種多様すぎる家紋を整理し、根本のデザインの統一を謀ったようです。
その方々は京都の橘紋デザインを基準と考え、「これこそ絶対正しい家紋図鑑」的な物を出しました。
これにより江戸橘は関東大名の久世家が用いてた替紋の丸橘が家紋カタログにガッチリ記されてしまったようです。
そこで常陸国立原家にとって謎なのが、菊座橘や菊座根橘です。
続く
「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp/
私が追い求めております自家の紋、「根無しの橘」について進展と発見がありましたので書きたいと思います。
まず今年に入ってから橘の紋様について国立国会図書館のデジタルコレクションで色々調べておりました。
様々な橘が描かれており、私が一番気になる実の筋も多様でした。
きっと平安時代の着物等の模様から橘紋は生まれたのかと思い、今度はグーグルで着物の橘模様を検索いたしましたところ、とある着物屋さんのブログを拝見しました。
そちらに記載されております内容が私にはとてつもない衝撃でありましてとても驚きました。
ノーマル橘紋には「江戸紋」と「京紋」があるそうです。
江戸紋=「久世橘」や真壁氏の定紋のデザインが江戸紋の橘でありまして
京紋=関西の橘寺の寺紋、橘氏の氏神の梅宮大社の神紋、また現代に広く知られておりますごく普通の「橘」及び「丸に橘」が「京紋」のようです。
続く
最も知られている立原氏の系図は大掾系図と常陸国誌に記載されているものだと思います。Wikipediaにもそれが載っています。
しかしこの二つを見比べると大掾系図の立原は六代、常陸国誌の立原は七代記されており、常陸国誌の方の六代目が大掾系図の方には載ってません。
①久幹(五郎)
↓
②盛幹(五郎次郎)
↓
③兼幹(小五郎)
↓
④重幹(五郎太)
↓
⑤武幹(小平太)
↓
⑥詮幹(平六)
もしくは
⑥定幹(平太)
↓
⑦詮幹(平六)
憶測でありますが定幹(平太)と詮幹(平六)は兄弟だったんじゃないかと推測してます。
詮幹は息子と共に立原城を出ていきます。南北朝時代の事です。宗家の大掾氏も本家の鹿島氏も悩みに悩んでいた南北事情ですので、分流の立原家も北朝についた者、南朝についた者等、各立原家の系図にも見受けられます。
何より詮幹の子孫の立原家文書を拝見いたしますと初代久幹より七代の孫が詮幹の子の様なので、やはり詮幹と定幹は兄弟のような気がします。
大掾氏家臣となった立原家ゆえに、大掾系図には六代を記し、大掾家にとっての立原は詮幹の子孫で、兄弟の定幹は記されないのでしょうか。
そういえば詮幹の子孫の立原家は江戸時代に水戸藩より優遇されておりましたが、全立原氏の嫡流を名乗っておりません。
ちなみに墓石や文書で嫡流を記載している立原氏は、
茨城町長岡
水戸市(顕幹流)
鹿嶋市小字立原(平貞盛の子孫)
ということは六代定幹(平太)の子孫は長岡か?
しかしこちらにはお手紙をしましたが返答無しでありまして真相は闇です。
ちなみに嫡流の通称に使われる名前は
『◯太』
『◯◯太』
『太郎◯◯』
『小◯◯』
『弥◯◯』
『又◯◯』
等あるそうで、やはり南北朝時代で代々嫡流ネームの立原家が突然
平六が嫡流とは疑問がわいてきます。
といいましても水戸市の中心部を除いた各地域の立原家です。
残るは…
北茨城市(丸三足橘)
高萩市(丸橘)
日立市諏訪(丸三盛亀甲花菱東平)
水戸市高野(丸二足橘)
水戸市栗崎(丸三盛亀甲花菱)
鹿嶋市立原(丸下がり藤、丸上がり藤)
鹿嶋市棚木(丸下がり藤)
鹿嶋市の南の地域(丸茗荷、丸梅)
鹿嶋市の中心部(?)
潮来市(丸桔梗、丸剣方喰)
行方市(二つ巴)
一ヶ月につき一地域にお手紙はなかなかの激務でありますが、急がないと物知りの古老が旅立ってしまいます。
マイナー武家である「立原氏」を調べ、きちんと後生に残せるのは今がラストチャンスかと思います。
古文書は捨てられ、古老はいなくなり言い伝えは途絶え、固定電話が無くなり電話帳が無くなり、多くの分流立原家は自分がどこから来たのか分からなくなるのは間違いありません。
そもそも立原姓のルーツは平、源、藤原があるそうなので、家紋である程度分かればいいなと思います。
※画像の書は友達の作品です。
前回の続きです。
以前伺いました高萩市のとあるお寺に再度調査をしに行きました。
こちらのお寺に行く前に共同墓地にもお寺にもリベンジ調査をしており、立原姓の墓地は無く残念な気持ちでありましたが、とうとう発見いたしました!お寺付属の墓地を突っ切り山の方へと行きますと林の中へと行けました。少し進みますと旧家と思われます墓石があちらこちらに見受けられ、立原家のお墓も発見できました。
丸橘でありまして、遠い遠い先祖は同じだったのでしょう。
たしか高萩市のこちらの地域の戦国時代以前は「大塚氏」が有名だったと思います。
佐竹旧臣録には大塚氏の家臣に立原氏がいますので、そちらの末裔なのかなとワクワクしながらご参拝させていただきました。
次にお伺いしましたのは水戸市飯富であります。
こちらも再度調査でして、墓地の場所も分かりますし、本家筋の方ともお手紙にて連絡しております。
飯富の立原氏は戦国時代以前より知られており、ある系図によれば立原顕幹の流れとなります。
飯富立原氏は1400年代には江戸氏の旧臣録に記載されており、茨城郡立原家の中ではかなり古く由緒ある家柄なのかと推測できます。
そして改めて共同墓地の墓石を確認いたしましたところ前回見過ごしていた家紋を沢山発見いたしました。
こちら飯富調査で確信しましたのが茨城郡、那珂郡各村の立原氏紋所の規則性…
本家→丸菊座(根)橘
分家?→久世橘、丸橘
しかし水戸市下大野の様にオリジナル橘紋を江戸時代に用いていた旧家もあるので、本当のところはまだまだ分かりません。
※画像の書は友達の作品です。
昔の人はほとんどが寺に墓を置かず、裏山だったり自宅の後ろだったりするみたいですね。
ちなみに遺体を埋める所と、石を置いてお参りする所は違うそうです。
もちろん茨城県の立原家もそんな感じです。
先日調査及びご参拝いたしました城里町の墓地は、グーグルマップですと林の中で見えないのですが、うっすらとお墓のシルエットが…一か八かで訪れてみますと、ございました。丸橘でありまして、茨城郡那珂郡の立原家と同族かと思われます。
その後伺いましたのは常陸大宮市の部垂周辺です。この地域は戦国時代の資料に沢山の立原の名前が残っております。
部垂地域には立原顕幹(平氏)を家祖とする一族と立原清行(藤原氏)を家祖とする一族がいる筈なんです。
大宮周辺の立原家は亀甲紋(水戸徳川家より拝領)を用いており、立原顕幹流の末裔だと思われます。
大宮より少し離れた辰ノ口地域に三つ巴紋が見受けられ、この度発見しましたのは大宮のすぐとなりの泉地域も三つ巴紋でした。こちらを探すのは本当に苦労しました。
巴紋の立原家が立原清行の子孫とは断定できませんが、橘紋立原家とはルーツは違うのかもしれません。それを確かめるには同じ巴紋を用いる行方郡立原家にお伺いしてようやく分かるのかもしれません。
常陸大宮市の調査を終えたあと、前回収穫ゼロの高萩市にリベンジ調査に行きました。
続く
とても親切にしていただきまして、最高の一時を過ごさせていただきました。
さて、プライバシーに関わる事ですので詳細は控えます。
ざっくりと差し支えのない程度に調査報告いたします。
まず、この度お会いしました立原家の方々は下郷地区の立原家の総本家です。
同じ地域の立原家が数件ありますがこちらの分流となります。
遺伝子的にはとある大名の子孫でして、江戸時代後期に両親を亡くし、水戸から来た立原氏の養子となり今に至るそうです。
ざっくりとしかお伝えできませんが、メチャクチャ面白い歴史でして、お伝えできなくて残念です。
この下郷調査で立原氏家紋について一つ確信いたしました。
茨城県の茨城郡、那珂郡地域(大掾氏、江戸氏の支配地域)の江戸時代後期から明治時代においての立原家の橘紋は
本家→丸菊座橘、丸菊座根橘
分家→丸久世橘、丸橘、丸三足橘
で、間違いありません。
丸無し家紋の古くからの家柄の立原家は秋田県におりますが、それも明治時代の事でして、今は子孫がどこに居るかはわかりません。
また、常陸に残った嫡流筋及び名家の立原家は水戸藩より『三盛亀甲』紋を拝領し、以前の家紋は分からないと思われます。
江戸時代期の橘紋の立原氏紋所の規則性から考慮するに、立原宗家は丸無しの菊座根橘もしくは菊座橘を用いていたのでしょうか?
秋田県に行って墓石調査をするしかありませんね。
さて、プライバシーに関わる事ですので詳細は控えます。
ざっくりと差し支えのない程度に調査報告いたします。
まず、この度お会いしました立原家の方々は下郷地区の立原家の総本家です。
同じ地域の立原家が数件ありますがこちらの分流となります。
遺伝子的にはとある大名の子孫でして、江戸時代後期に両親を亡くし、水戸から来た立原氏の養子となり今に至るそうです。
ざっくりとしかお伝えできませんが、メチャクチャ面白い歴史でして、お伝えできなくて残念です。
この下郷調査で立原氏家紋について一つ確信いたしました。
茨城県の茨城郡、那珂郡地域(大掾氏、江戸氏の支配地域)の江戸時代後期から明治時代においての立原家の橘紋は
本家→丸菊座橘、丸菊座根橘
分家→丸久世橘、丸橘、丸三足橘
で、間違いありません。
丸無し家紋の古くからの家柄の立原家は秋田県におりますが、それも明治時代の事でして、今は子孫がどこに居るかはわかりません。
また、常陸に残った嫡流筋及び名家の立原家は水戸藩より『三盛亀甲』紋を拝領し、以前の家紋は分からないと思われます。
江戸時代期の橘紋の立原氏紋所の規則性から考慮するに、立原宗家は丸無しの菊座根橘もしくは菊座橘を用いていたのでしょうか?
秋田県に行って墓石調査をするしかありませんね。
平安後期の創成期から南北朝時代までの期間は、立原一族はまだ立原城内(立原村)に多くは住んでいたと思われます。
もちろん早々に出ていった分流もいることでしょうけど、今のところ分かりません。
立原太郎の系図
立原五郎次郎の系図
立原(春秋)三郎の系図
立原五郎四郎の系図
嫡流は次郎の様でして、本宗家の大掾系図にも記されており、代々「幹」を名乗っております。
私が気付いたのは、立原城内に住んでいる時の分家は「幹」の名付けを避けているように思えます。しかし城を出た後に「幹」を名乗り、世襲する家がありました。
立原城を出るタイミングは南北朝期と上杉禅秀の乱の時期に見られます。本宗家の大掾氏の方向がぶれまくっていた時期です。
私が持っている資料によりますとこの頃に城を出て佐竹氏に仕えたもの、大掾氏に仕えたもの等が見られます。
本家鹿島氏に仕えた立原家も、想像ではありますが沢山いたと思います。
しかしそもそも立原地区に居続けた立原家は鹿島氏とはルーツが違い、「平貞盛」がルーツの様です。
常陸平氏のルーツは「平繁盛」でして貞盛の弟。
だから貞盛流立原家と繁盛流立原家で家紋がまったく違うのかな?と思いました。
もちろん早々に出ていった分流もいることでしょうけど、今のところ分かりません。
立原太郎の系図
立原五郎次郎の系図
立原(春秋)三郎の系図
立原五郎四郎の系図
嫡流は次郎の様でして、本宗家の大掾系図にも記されており、代々「幹」を名乗っております。
私が気付いたのは、立原城内に住んでいる時の分家は「幹」の名付けを避けているように思えます。しかし城を出た後に「幹」を名乗り、世襲する家がありました。
立原城を出るタイミングは南北朝期と上杉禅秀の乱の時期に見られます。本宗家の大掾氏の方向がぶれまくっていた時期です。
私が持っている資料によりますとこの頃に城を出て佐竹氏に仕えたもの、大掾氏に仕えたもの等が見られます。
本家鹿島氏に仕えた立原家も、想像ではありますが沢山いたと思います。
しかしそもそも立原地区に居続けた立原家は鹿島氏とはルーツが違い、「平貞盛」がルーツの様です。
常陸平氏のルーツは「平繁盛」でして貞盛の弟。
だから貞盛流立原家と繁盛流立原家で家紋がまったく違うのかな?と思いました。
久しぶりに昔に集めた資料を見ていると、当時は気付かなかった事が現在では気付けたりします。
まず驚きましたことは、幕末から明治初期にかけての立原村の村長さん、及びその後周辺の村々と合併しできた和村の戸長の「立原平四郎」さんの茨城県人名録の記述を読んだ時です。
人名録の記載によりますと、立原村の立原家は平貞盛の子孫であり、定説である家祖「立原五郎平久幹」は養子であるとのこと。
常陸大掾一族はもとより立原氏も「平貞盛」の弟「平繁盛」の子が貞盛の養子となり、その子孫が常陸平氏となったのである。しかし貞盛の直系が常陸に残り、鹿島郡の立原の地に根付いていたとしてもおかしくは無いです。
大掾系図の立原家と立原村鑑の立原家は初代とされる「久幹」二代目「盛幹」までは同じですが、そのあとが別の系統となります。諱や通称の規則性も違い、家紋も違います。
どちらの系統も違った立場の「嫡流」だと思いました。
大掾系図の立原家は大掾一族の証である「幹」の字を代々諱に襲名し、鹿島氏、大掾氏、江戸氏、徳川家に仕えたのだと思われます。大掾系図にも記載されておりますし、正真正銘の立原ではないでしょうか。
立原村の立原系図は、久幹が来る前の諱や通称を意識しており、系図から察するに「本当の立原は自分達だ」と伝えているのでしょう。
まだまだ謎だらけで、初代からの系図では「顕幹流」や久幹の子「盛朝流」等あります。
さて、立原村に関しまして謎がありまして、立原村鑑の系図の立原家と、鹿島郡常陸平氏の総本家である鹿島宗家が茨城県立歴史館に寄贈した立原系図では名前が全く一致しません。
立原村には下がり藤と上がり藤があります。何か意味があるのでしょうか?お隣の村、棚木村の立原家も下がり藤です。
しかし遠く離れた茨城郡鯉淵村は上がり藤です。
何かありそうですね、ワクワクします。
まず驚きましたことは、幕末から明治初期にかけての立原村の村長さん、及びその後周辺の村々と合併しできた和村の戸長の「立原平四郎」さんの茨城県人名録の記述を読んだ時です。
人名録の記載によりますと、立原村の立原家は平貞盛の子孫であり、定説である家祖「立原五郎平久幹」は養子であるとのこと。
常陸大掾一族はもとより立原氏も「平貞盛」の弟「平繁盛」の子が貞盛の養子となり、その子孫が常陸平氏となったのである。しかし貞盛の直系が常陸に残り、鹿島郡の立原の地に根付いていたとしてもおかしくは無いです。
大掾系図の立原家と立原村鑑の立原家は初代とされる「久幹」二代目「盛幹」までは同じですが、そのあとが別の系統となります。諱や通称の規則性も違い、家紋も違います。
どちらの系統も違った立場の「嫡流」だと思いました。
大掾系図の立原家は大掾一族の証である「幹」の字を代々諱に襲名し、鹿島氏、大掾氏、江戸氏、徳川家に仕えたのだと思われます。大掾系図にも記載されておりますし、正真正銘の立原ではないでしょうか。
立原村の立原系図は、久幹が来る前の諱や通称を意識しており、系図から察するに「本当の立原は自分達だ」と伝えているのでしょう。
まだまだ謎だらけで、初代からの系図では「顕幹流」や久幹の子「盛朝流」等あります。
さて、立原村に関しまして謎がありまして、立原村鑑の系図の立原家と、鹿島郡常陸平氏の総本家である鹿島宗家が茨城県立歴史館に寄贈した立原系図では名前が全く一致しません。
立原村には下がり藤と上がり藤があります。何か意味があるのでしょうか?お隣の村、棚木村の立原家も下がり藤です。
しかし遠く離れた茨城郡鯉淵村は上がり藤です。
何かありそうですね、ワクワクします。
前回の記事に『太郎』の前後には輩行名は付かないと書きましたが、普通に立原系図におりました。見落としておりました。
『五郎太』『五郎太郎』等々。
『五郎太』『五郎太郎』等々。