茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
前回書き間違えた事がありますので訂正させていただきます。
池坊=頂法寺の寺紋を「根無し橘」と書きましたが、家紋研究家丹羽氏の著書「寺紋」には「根なし菊座橘」とあります。すみませんでした。
ある神社は丹羽氏の著書「神紋」には「菊橘」ともあり、やはり現代の「菊座橘」とは関東では「菊橘」、関西では「根なし菊座橘」だったりするのでしょうか。
「菊座橘」にとっての「根」とは台であり、おそらくは花台的な物だったのでしょうか。
そもそも「菊座」は座金の一種であり、家紋の「菊」は座金ではありません。なので橘紋の実に乗っかった菊も座金とは言えません。やはり菊座の「座」は菊橘が乗っかる台としての座ではないでしょうか。
菊=橘に乗っかる花
座=橘の茎の下の台
としたら立原家の家紋の呼び名の「根有橘」はなんなんでしょうか。確かにあれは台というよりは根に見える。そもそも「根」の解釈は立原家に限らず全国の日本人共通の解釈かもしれません。
ゆえに「根なし橘」も立原家に限らず他家も呼んでいるようなので、橘紋の答えは立原家調査だけではダメだと思いました。
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菊座=菊の形をした座金…ゆえに「菊座橘」は橘の実の頂点を菊座(座金)にしたデザイン…というのは、私は違うと思います。
「座」は台、花の台だと思います。関東の紋帳で「菊座橘」といえば菊を被せた橘が台の上にある紋です。
有名な三井寺は今で言う「菊座根橘」でして、池坊は今で言う菊座橘を「根無し橘」と云っていたそうです。
と、いうことは本来の菊座橘=
菊と台(座)があるゴージャスな紋
台=座=根の無い菊座橘を「根無し橘」「菊橘」と呼んでいたのかもしれません。
はたして立原一族はなにゆえ「丸に菊座橘」が多いのでしょうか?
次回私の考えを書きたいと思います。
(東京国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
「座」は台、花の台だと思います。関東の紋帳で「菊座橘」といえば菊を被せた橘が台の上にある紋です。
有名な三井寺は今で言う「菊座根橘」でして、池坊は今で言う菊座橘を「根無し橘」と云っていたそうです。
と、いうことは本来の菊座橘=
菊と台(座)があるゴージャスな紋
台=座=根の無い菊座橘を「根無し橘」「菊橘」と呼んでいたのかもしれません。
はたして立原一族はなにゆえ「丸に菊座橘」が多いのでしょうか?
次回私の考えを書きたいと思います。
(東京国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp
今思えば昨年にお伺いさせていただきました下郷立原家のお家に飾られておりました着物の紋も「江戸橘」でした。墓石は丸に菊座橘でした。
何故、江戸橘のネーミングが「久世橘」なのでしょうか。
これはおそらく戦前の京都の家紋大好きおじさん達のせいです。
京都の家紋大好きおじさん達は全国の多種多様すぎる家紋を整理し、根本のデザインの統一を謀ったようです。
その方々は京都の橘紋デザインを基準と考え、「これこそ絶対正しい家紋図鑑」的な物を出しました。
これにより江戸橘は関東大名の久世家が用いてた替紋の丸橘が家紋カタログにガッチリ記されてしまったようです。
そこで常陸国立原家にとって謎なのが、菊座橘や菊座根橘です。
続く
「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp/
私が追い求めております自家の紋、「根無しの橘」について進展と発見がありましたので書きたいと思います。
まず今年に入ってから橘の紋様について国立国会図書館のデジタルコレクションで色々調べておりました。
様々な橘が描かれており、私が一番気になる実の筋も多様でした。
きっと平安時代の着物等の模様から橘紋は生まれたのかと思い、今度はグーグルで着物の橘模様を検索いたしましたところ、とある着物屋さんのブログを拝見しました。
そちらに記載されております内容が私にはとてつもない衝撃でありましてとても驚きました。
ノーマル橘紋には「江戸紋」と「京紋」があるそうです。
江戸紋=「久世橘」や真壁氏の定紋のデザインが江戸紋の橘でありまして
京紋=関西の橘寺の寺紋、橘氏の氏神の梅宮大社の神紋、また現代に広く知られておりますごく普通の「橘」及び「丸に橘」が「京紋」のようです。
続く
最も知られている立原氏の系図は大掾系図と常陸国誌に記載されているものだと思います。Wikipediaにもそれが載っています。
しかしこの二つを見比べると大掾系図の立原は六代、常陸国誌の立原は七代記されており、常陸国誌の方の六代目が大掾系図の方には載ってません。
①久幹(五郎)
↓
②盛幹(五郎次郎)
↓
③兼幹(小五郎)
↓
④重幹(五郎太)
↓
⑤武幹(小平太)
↓
⑥詮幹(平六)
もしくは
⑥定幹(平太)
↓
⑦詮幹(平六)
憶測でありますが定幹(平太)と詮幹(平六)は兄弟だったんじゃないかと推測してます。
詮幹は息子と共に立原城を出ていきます。南北朝時代の事です。宗家の大掾氏も本家の鹿島氏も悩みに悩んでいた南北事情ですので、分流の立原家も北朝についた者、南朝についた者等、各立原家の系図にも見受けられます。
何より詮幹の子孫の立原家文書を拝見いたしますと初代久幹より七代の孫が詮幹の子の様なので、やはり詮幹と定幹は兄弟のような気がします。
大掾氏家臣となった立原家ゆえに、大掾系図には六代を記し、大掾家にとっての立原は詮幹の子孫で、兄弟の定幹は記されないのでしょうか。
そういえば詮幹の子孫の立原家は江戸時代に水戸藩より優遇されておりましたが、全立原氏の嫡流を名乗っておりません。
ちなみに墓石や文書で嫡流を記載している立原氏は、
茨城町長岡
水戸市(顕幹流)
鹿嶋市小字立原(平貞盛の子孫)
ということは六代定幹(平太)の子孫は長岡か?
しかしこちらにはお手紙をしましたが返答無しでありまして真相は闇です。
ちなみに嫡流の通称に使われる名前は
『◯太』
『◯◯太』
『太郎◯◯』
『小◯◯』
『弥◯◯』
『又◯◯』
等あるそうで、やはり南北朝時代で代々嫡流ネームの立原家が突然
平六が嫡流とは疑問がわいてきます。
といいましても水戸市の中心部を除いた各地域の立原家です。
残るは…
北茨城市(丸三足橘)
高萩市(丸橘)
日立市諏訪(丸三盛亀甲花菱東平)
水戸市高野(丸二足橘)
水戸市栗崎(丸三盛亀甲花菱)
鹿嶋市立原(丸下がり藤、丸上がり藤)
鹿嶋市棚木(丸下がり藤)
鹿嶋市の南の地域(丸茗荷、丸梅)
鹿嶋市の中心部(?)
潮来市(丸桔梗、丸剣方喰)
行方市(二つ巴)
一ヶ月につき一地域にお手紙はなかなかの激務でありますが、急がないと物知りの古老が旅立ってしまいます。
マイナー武家である「立原氏」を調べ、きちんと後生に残せるのは今がラストチャンスかと思います。
古文書は捨てられ、古老はいなくなり言い伝えは途絶え、固定電話が無くなり電話帳が無くなり、多くの分流立原家は自分がどこから来たのか分からなくなるのは間違いありません。
そもそも立原姓のルーツは平、源、藤原があるそうなので、家紋である程度分かればいいなと思います。
※画像の書は友達の作品です。
前回の続きです。
以前伺いました高萩市のとあるお寺に再度調査をしに行きました。
こちらのお寺に行く前に共同墓地にもお寺にもリベンジ調査をしており、立原姓の墓地は無く残念な気持ちでありましたが、とうとう発見いたしました!お寺付属の墓地を突っ切り山の方へと行きますと林の中へと行けました。少し進みますと旧家と思われます墓石があちらこちらに見受けられ、立原家のお墓も発見できました。
丸橘でありまして、遠い遠い先祖は同じだったのでしょう。
たしか高萩市のこちらの地域の戦国時代以前は「大塚氏」が有名だったと思います。
佐竹旧臣録には大塚氏の家臣に立原氏がいますので、そちらの末裔なのかなとワクワクしながらご参拝させていただきました。
次にお伺いしましたのは水戸市飯富であります。
こちらも再度調査でして、墓地の場所も分かりますし、本家筋の方ともお手紙にて連絡しております。
飯富の立原氏は戦国時代以前より知られており、ある系図によれば立原顕幹の流れとなります。
飯富立原氏は1400年代には江戸氏の旧臣録に記載されており、茨城郡立原家の中ではかなり古く由緒ある家柄なのかと推測できます。
そして改めて共同墓地の墓石を確認いたしましたところ前回見過ごしていた家紋を沢山発見いたしました。
こちら飯富調査で確信しましたのが茨城郡、那珂郡各村の立原氏紋所の規則性…
本家→丸菊座(根)橘
分家?→久世橘、丸橘
しかし水戸市下大野の様にオリジナル橘紋を江戸時代に用いていた旧家もあるので、本当のところはまだまだ分かりません。
※画像の書は友達の作品です。
昔の人はほとんどが寺に墓を置かず、裏山だったり自宅の後ろだったりするみたいですね。
ちなみに遺体を埋める所と、石を置いてお参りする所は違うそうです。
もちろん茨城県の立原家もそんな感じです。
先日調査及びご参拝いたしました城里町の墓地は、グーグルマップですと林の中で見えないのですが、うっすらとお墓のシルエットが…一か八かで訪れてみますと、ございました。丸橘でありまして、茨城郡那珂郡の立原家と同族かと思われます。
その後伺いましたのは常陸大宮市の部垂周辺です。この地域は戦国時代の資料に沢山の立原の名前が残っております。
部垂地域には立原顕幹(平氏)を家祖とする一族と立原清行(藤原氏)を家祖とする一族がいる筈なんです。
大宮周辺の立原家は亀甲紋(水戸徳川家より拝領)を用いており、立原顕幹流の末裔だと思われます。
大宮より少し離れた辰ノ口地域に三つ巴紋が見受けられ、この度発見しましたのは大宮のすぐとなりの泉地域も三つ巴紋でした。こちらを探すのは本当に苦労しました。
巴紋の立原家が立原清行の子孫とは断定できませんが、橘紋立原家とはルーツは違うのかもしれません。それを確かめるには同じ巴紋を用いる行方郡立原家にお伺いしてようやく分かるのかもしれません。
常陸大宮市の調査を終えたあと、前回収穫ゼロの高萩市にリベンジ調査に行きました。
続く
とても親切にしていただきまして、最高の一時を過ごさせていただきました。
さて、プライバシーに関わる事ですので詳細は控えます。
ざっくりと差し支えのない程度に調査報告いたします。
まず、この度お会いしました立原家の方々は下郷地区の立原家の総本家です。
同じ地域の立原家が数件ありますがこちらの分流となります。
遺伝子的にはとある大名の子孫でして、江戸時代後期に両親を亡くし、水戸から来た立原氏の養子となり今に至るそうです。
ざっくりとしかお伝えできませんが、メチャクチャ面白い歴史でして、お伝えできなくて残念です。
この下郷調査で立原氏家紋について一つ確信いたしました。
茨城県の茨城郡、那珂郡地域(大掾氏、江戸氏の支配地域)の江戸時代後期から明治時代においての立原家の橘紋は
本家→丸菊座橘、丸菊座根橘
分家→丸久世橘、丸橘、丸三足橘
で、間違いありません。
丸無し家紋の古くからの家柄の立原家は秋田県におりますが、それも明治時代の事でして、今は子孫がどこに居るかはわかりません。
また、常陸に残った嫡流筋及び名家の立原家は水戸藩より『三盛亀甲』紋を拝領し、以前の家紋は分からないと思われます。
江戸時代期の橘紋の立原氏紋所の規則性から考慮するに、立原宗家は丸無しの菊座根橘もしくは菊座橘を用いていたのでしょうか?
秋田県に行って墓石調査をするしかありませんね。
さて、プライバシーに関わる事ですので詳細は控えます。
ざっくりと差し支えのない程度に調査報告いたします。
まず、この度お会いしました立原家の方々は下郷地区の立原家の総本家です。
同じ地域の立原家が数件ありますがこちらの分流となります。
遺伝子的にはとある大名の子孫でして、江戸時代後期に両親を亡くし、水戸から来た立原氏の養子となり今に至るそうです。
ざっくりとしかお伝えできませんが、メチャクチャ面白い歴史でして、お伝えできなくて残念です。
この下郷調査で立原氏家紋について一つ確信いたしました。
茨城県の茨城郡、那珂郡地域(大掾氏、江戸氏の支配地域)の江戸時代後期から明治時代においての立原家の橘紋は
本家→丸菊座橘、丸菊座根橘
分家→丸久世橘、丸橘、丸三足橘
で、間違いありません。
丸無し家紋の古くからの家柄の立原家は秋田県におりますが、それも明治時代の事でして、今は子孫がどこに居るかはわかりません。
また、常陸に残った嫡流筋及び名家の立原家は水戸藩より『三盛亀甲』紋を拝領し、以前の家紋は分からないと思われます。
江戸時代期の橘紋の立原氏紋所の規則性から考慮するに、立原宗家は丸無しの菊座根橘もしくは菊座橘を用いていたのでしょうか?
秋田県に行って墓石調査をするしかありませんね。
平安後期の創成期から南北朝時代までの期間は、立原一族はまだ立原城内(立原村)に多くは住んでいたと思われます。
もちろん早々に出ていった分流もいることでしょうけど、今のところ分かりません。
立原太郎の系図
立原五郎次郎の系図
立原(春秋)三郎の系図
立原五郎四郎の系図
嫡流は次郎の様でして、本宗家の大掾系図にも記されており、代々「幹」を名乗っております。
私が気付いたのは、立原城内に住んでいる時の分家は「幹」の名付けを避けているように思えます。しかし城を出た後に「幹」を名乗り、世襲する家がありました。
立原城を出るタイミングは南北朝期と上杉禅秀の乱の時期に見られます。本宗家の大掾氏の方向がぶれまくっていた時期です。
私が持っている資料によりますとこの頃に城を出て佐竹氏に仕えたもの、大掾氏に仕えたもの等が見られます。
本家鹿島氏に仕えた立原家も、想像ではありますが沢山いたと思います。
しかしそもそも立原地区に居続けた立原家は鹿島氏とはルーツが違い、「平貞盛」がルーツの様です。
常陸平氏のルーツは「平繁盛」でして貞盛の弟。
だから貞盛流立原家と繁盛流立原家で家紋がまったく違うのかな?と思いました。
もちろん早々に出ていった分流もいることでしょうけど、今のところ分かりません。
立原太郎の系図
立原五郎次郎の系図
立原(春秋)三郎の系図
立原五郎四郎の系図
嫡流は次郎の様でして、本宗家の大掾系図にも記されており、代々「幹」を名乗っております。
私が気付いたのは、立原城内に住んでいる時の分家は「幹」の名付けを避けているように思えます。しかし城を出た後に「幹」を名乗り、世襲する家がありました。
立原城を出るタイミングは南北朝期と上杉禅秀の乱の時期に見られます。本宗家の大掾氏の方向がぶれまくっていた時期です。
私が持っている資料によりますとこの頃に城を出て佐竹氏に仕えたもの、大掾氏に仕えたもの等が見られます。
本家鹿島氏に仕えた立原家も、想像ではありますが沢山いたと思います。
しかしそもそも立原地区に居続けた立原家は鹿島氏とはルーツが違い、「平貞盛」がルーツの様です。
常陸平氏のルーツは「平繁盛」でして貞盛の弟。
だから貞盛流立原家と繁盛流立原家で家紋がまったく違うのかな?と思いました。
久しぶりに昔に集めた資料を見ていると、当時は気付かなかった事が現在では気付けたりします。
まず驚きましたことは、幕末から明治初期にかけての立原村の村長さん、及びその後周辺の村々と合併しできた和村の戸長の「立原平四郎」さんの茨城県人名録の記述を読んだ時です。
人名録の記載によりますと、立原村の立原家は平貞盛の子孫であり、定説である家祖「立原五郎平久幹」は養子であるとのこと。
常陸大掾一族はもとより立原氏も「平貞盛」の弟「平繁盛」の子が貞盛の養子となり、その子孫が常陸平氏となったのである。しかし貞盛の直系が常陸に残り、鹿島郡の立原の地に根付いていたとしてもおかしくは無いです。
大掾系図の立原家と立原村鑑の立原家は初代とされる「久幹」二代目「盛幹」までは同じですが、そのあとが別の系統となります。諱や通称の規則性も違い、家紋も違います。
どちらの系統も違った立場の「嫡流」だと思いました。
大掾系図の立原家は大掾一族の証である「幹」の字を代々諱に襲名し、鹿島氏、大掾氏、江戸氏、徳川家に仕えたのだと思われます。大掾系図にも記載されておりますし、正真正銘の立原ではないでしょうか。
立原村の立原系図は、久幹が来る前の諱や通称を意識しており、系図から察するに「本当の立原は自分達だ」と伝えているのでしょう。
まだまだ謎だらけで、初代からの系図では「顕幹流」や久幹の子「盛朝流」等あります。
さて、立原村に関しまして謎がありまして、立原村鑑の系図の立原家と、鹿島郡常陸平氏の総本家である鹿島宗家が茨城県立歴史館に寄贈した立原系図では名前が全く一致しません。
立原村には下がり藤と上がり藤があります。何か意味があるのでしょうか?お隣の村、棚木村の立原家も下がり藤です。
しかし遠く離れた茨城郡鯉淵村は上がり藤です。
何かありそうですね、ワクワクします。
まず驚きましたことは、幕末から明治初期にかけての立原村の村長さん、及びその後周辺の村々と合併しできた和村の戸長の「立原平四郎」さんの茨城県人名録の記述を読んだ時です。
人名録の記載によりますと、立原村の立原家は平貞盛の子孫であり、定説である家祖「立原五郎平久幹」は養子であるとのこと。
常陸大掾一族はもとより立原氏も「平貞盛」の弟「平繁盛」の子が貞盛の養子となり、その子孫が常陸平氏となったのである。しかし貞盛の直系が常陸に残り、鹿島郡の立原の地に根付いていたとしてもおかしくは無いです。
大掾系図の立原家と立原村鑑の立原家は初代とされる「久幹」二代目「盛幹」までは同じですが、そのあとが別の系統となります。諱や通称の規則性も違い、家紋も違います。
どちらの系統も違った立場の「嫡流」だと思いました。
大掾系図の立原家は大掾一族の証である「幹」の字を代々諱に襲名し、鹿島氏、大掾氏、江戸氏、徳川家に仕えたのだと思われます。大掾系図にも記載されておりますし、正真正銘の立原ではないでしょうか。
立原村の立原系図は、久幹が来る前の諱や通称を意識しており、系図から察するに「本当の立原は自分達だ」と伝えているのでしょう。
まだまだ謎だらけで、初代からの系図では「顕幹流」や久幹の子「盛朝流」等あります。
さて、立原村に関しまして謎がありまして、立原村鑑の系図の立原家と、鹿島郡常陸平氏の総本家である鹿島宗家が茨城県立歴史館に寄贈した立原系図では名前が全く一致しません。
立原村には下がり藤と上がり藤があります。何か意味があるのでしょうか?お隣の村、棚木村の立原家も下がり藤です。
しかし遠く離れた茨城郡鯉淵村は上がり藤です。
何かありそうですね、ワクワクします。
前回の記事に『太郎』の前後には輩行名は付かないと書きましたが、普通に立原系図におりました。見落としておりました。
『五郎太』『五郎太郎』等々。
『五郎太』『五郎太郎』等々。
日本史に詳しい方でしたら知っていると思いますが、どうやら鎌倉時代や室町時代は長男相続ではなく、能力や実力により次男以下も相続できるようです。
加えて思いますのが嫡流=土地の相続、が絶対ではないと素人知識でありますがそう思います。
立原城にも色々あったようで、家を興した創成期から室町中期にかけて立原各家の系図を照らし会わしますと、矛盾や謎が見られます。
『立原』と言えばどの文献にも家祖は『五郎、久幹』とあります。ちなみに烟田文書には『文幹、五郎』とありましたが『久』と『文』の書き間違えか読み間違えではないでしょうか。烟田氏は常陸平氏で、茨城県ではちょっと有名な武将です。
私が謎に思うのがもう一人の家祖『立原雅楽亮平顕幹』の事です。
こちらを祖とする家は沢山ありますし、子孫が戦国時代や江戸時代に最も栄えた立原一族と言っても過言ではありません。
しかしどの文献にも『顕幹』の名は見られません。
しかし顕幹を久幹と同一人物と過程しますと一つだけスッキリすることがあります。両人の息子達の名前です。
立原太郎(顕幹の子)
立原五郎次郎(久幹の子)※嫡流(大掾系図ですと)
春秋三郎(久幹の子)
立原五郎四郎(久幹の子)
同じ村や城で同じ名字で『太郎』は一人しか名乗れないはずです。
立原家祖として通説の久幹ですが子に太郎がいないのは不思議です。しかも所領を継いだのは『五郎次郎、盛幹』です。
と考えると顕幹と久幹は同一人物であり、何かの書き誤りや読み間違え、伝え間違えなのかと思いました。
もしくは同一人物だとしても『太郎家』と『次郎家』に分かれ、系図によりますと『太郎家』の末裔に『立原玄番』が居り、同じ武士か分かりませんが大掾旧臣録にはひたちなか市のある土地を知行しているようです。その系図の玄番は旧臣録の玄番と同じ時代なので同一人物かと思いたいです。
同じ頃『五郎次郎家』の子孫は小幡を知行しています。と言いたいところですがこの情報はあくまで系図と大掾氏や江戸氏の旧臣録を参考にしただけで確かでありません。
後日、この顕幹久幹について明治初期に交わされた秋田県士族立原政蔵氏と立原村村長立原平四郎氏の手紙を元に書かせていただきたいと思います。
ちなみに『五郎次郎』とか『次郎三郎』というのは五郎の次男とか、次郎の三男という意味らしいです。立原家の系図を見る限りはこういう名前は鎌倉初期に流行ったのかな?と思います。その後は官職の名前が多いみたいです。
そう言えば『太郎』には名前の前にも後ろにも順番的な名前がくっついているのは見たことありません。やはり太郎は特別なのでしょうか。
加えて思いますのが嫡流=土地の相続、が絶対ではないと素人知識でありますがそう思います。
立原城にも色々あったようで、家を興した創成期から室町中期にかけて立原各家の系図を照らし会わしますと、矛盾や謎が見られます。
『立原』と言えばどの文献にも家祖は『五郎、久幹』とあります。ちなみに烟田文書には『文幹、五郎』とありましたが『久』と『文』の書き間違えか読み間違えではないでしょうか。烟田氏は常陸平氏で、茨城県ではちょっと有名な武将です。
私が謎に思うのがもう一人の家祖『立原雅楽亮平顕幹』の事です。
こちらを祖とする家は沢山ありますし、子孫が戦国時代や江戸時代に最も栄えた立原一族と言っても過言ではありません。
しかしどの文献にも『顕幹』の名は見られません。
しかし顕幹を久幹と同一人物と過程しますと一つだけスッキリすることがあります。両人の息子達の名前です。
立原太郎(顕幹の子)
立原五郎次郎(久幹の子)※嫡流(大掾系図ですと)
春秋三郎(久幹の子)
立原五郎四郎(久幹の子)
同じ村や城で同じ名字で『太郎』は一人しか名乗れないはずです。
立原家祖として通説の久幹ですが子に太郎がいないのは不思議です。しかも所領を継いだのは『五郎次郎、盛幹』です。
と考えると顕幹と久幹は同一人物であり、何かの書き誤りや読み間違え、伝え間違えなのかと思いました。
もしくは同一人物だとしても『太郎家』と『次郎家』に分かれ、系図によりますと『太郎家』の末裔に『立原玄番』が居り、同じ武士か分かりませんが大掾旧臣録にはひたちなか市のある土地を知行しているようです。その系図の玄番は旧臣録の玄番と同じ時代なので同一人物かと思いたいです。
同じ頃『五郎次郎家』の子孫は小幡を知行しています。と言いたいところですがこの情報はあくまで系図と大掾氏や江戸氏の旧臣録を参考にしただけで確かでありません。
後日、この顕幹久幹について明治初期に交わされた秋田県士族立原政蔵氏と立原村村長立原平四郎氏の手紙を元に書かせていただきたいと思います。
ちなみに『五郎次郎』とか『次郎三郎』というのは五郎の次男とか、次郎の三男という意味らしいです。立原家の系図を見る限りはこういう名前は鎌倉初期に流行ったのかな?と思います。その後は官職の名前が多いみたいです。
そう言えば『太郎』には名前の前にも後ろにも順番的な名前がくっついているのは見たことありません。やはり太郎は特別なのでしょうか。
前回からの続きです。
茨城町小幡には二回ほどお伺いしましたが、この度はネットでお店を商っている立原様がいらっしゃるとのことを知り、フラりと立ち寄らせていただきました。
買い物をしながらサラリとお店の方に『小幡の立原家の嫡家はどちらでしょうか?』と普通じゃあり得ない失礼な質問をしますと、大変ご親切にご教示くださいました。
プライバシーに関わることなので詳しく記すことはできませんが、小幡立原の素晴らしい由緒をお聞きすることができました。
とても親切にしていただきまして、心より感謝いたします。
お墓にもご参拝させていただき(今回で三回目)、あらためて気付いた事、以前は見過ごして分からなかったことも分かってきました。
とにかく墓石に刻まれた名には本姓の『平』や常陸大掾一門の証である諱の『幹』が各墓石に刻まれており、やはり立原五郎平久幹の嫡流はここなんだろうなぁ、と、思いました。
後日書こうかと思いますが、嫡流、本家、総本家等同じようでちょっと違う感じを書きたいと思います。
あわせて家祖『立原五郎平久幹』と家祖『立原雅楽亮平顕幹』のダブル家祖について気付いた事があるので書かせていただきます。
茨城町小幡には二回ほどお伺いしましたが、この度はネットでお店を商っている立原様がいらっしゃるとのことを知り、フラりと立ち寄らせていただきました。
買い物をしながらサラリとお店の方に『小幡の立原家の嫡家はどちらでしょうか?』と普通じゃあり得ない失礼な質問をしますと、大変ご親切にご教示くださいました。
プライバシーに関わることなので詳しく記すことはできませんが、小幡立原の素晴らしい由緒をお聞きすることができました。
とても親切にしていただきまして、心より感謝いたします。
お墓にもご参拝させていただき(今回で三回目)、あらためて気付いた事、以前は見過ごして分からなかったことも分かってきました。
とにかく墓石に刻まれた名には本姓の『平』や常陸大掾一門の証である諱の『幹』が各墓石に刻まれており、やはり立原五郎平久幹の嫡流はここなんだろうなぁ、と、思いました。
後日書こうかと思いますが、嫡流、本家、総本家等同じようでちょっと違う感じを書きたいと思います。
あわせて家祖『立原五郎平久幹』と家祖『立原雅楽亮平顕幹』のダブル家祖について気付いた事があるので書かせていただきます。
とある立原様の墓地にお伺いいたしました。
いつもはこっそりご参拝するのですが、その家の方の了承済なので堂々とご参拝させていただきました。
以前下郷にお伺いしたときにはこちらの墓地には気付かずにスルーしてしまいました。
あれれ?丸に菊座橘でありました。
下郷立原家はその他の立原家の紋所から察するに『丸に久世橘』が本来かと思っておりましたが、今回の旧家の古いお墓には菊座があしらっておりました。
さて、江戸期にデザインチェンジしたのか、そもそもルーツが異なるのか、それとも近代になり、あらためたのか、まだまだわからないことだらけです。
とにかく下郷立原家に関して推測できることは、恐らくは小田氏、及びその分家武将の支配地であるため、その家臣もしくは領民だったのでしょう。
下郷の調査を終え、私は茨城町小幡に向かうことにしました。
続く
いつもはこっそりご参拝するのですが、その家の方の了承済なので堂々とご参拝させていただきました。
以前下郷にお伺いしたときにはこちらの墓地には気付かずにスルーしてしまいました。
あれれ?丸に菊座橘でありました。
下郷立原家はその他の立原家の紋所から察するに『丸に久世橘』が本来かと思っておりましたが、今回の旧家の古いお墓には菊座があしらっておりました。
さて、江戸期にデザインチェンジしたのか、そもそもルーツが異なるのか、それとも近代になり、あらためたのか、まだまだわからないことだらけです。
とにかく下郷立原家に関して推測できることは、恐らくは小田氏、及びその分家武将の支配地であるため、その家臣もしくは領民だったのでしょう。
下郷の調査を終え、私は茨城町小幡に向かうことにしました。
続く
『寺紋』という本がありまして、何年か前に購入いたしました。
改めて読み返すと数年前には気付かなかった事に気付くものですね。
私の考えで恐縮でありますが、そこそこの武家や平民より寺や神社の方が家紋のデザインや呼び名を長い間守っていると思います。
こちらの『寺紋』に記載されております情報から考えますと…
『菊座橘』は『橘』に『菊』と『台(もしくは根)』が加えられたのがデザインのスタートかと思います。三井寺など記載されておりましたが、町中の日蓮宗のお寺の橘紋も『根』がセットだったりします。
頂法寺(六角堂、池坊)は『根なし橘(立花だったっけ?)』と、云うそうです、菊座橘を。ということはそもそも根が有り、それを除いたため根なしなのでしょう。
私的に菊座橘の謎は少し明かされた気になりました。しかし立原家の面倒くさいところは菊座だけでなく『久世橘』がとても多いところです。『根(足)』があったり、皺が少なかったり、丸が無かったりと色々なパターンがあります。
それが本来は菊座であって、そこから久世をあしらったのか、そもそも菊座と久世で派閥が違うのか、ただたんに江戸期、明治期に家の区別のためにデザインを変えたのか。まだまだわかりません。
しかも茨城県立原家の嫡流家と思われます三家がございますが、三家共に『橘』紋ではありません。二家はルーツは違いますが水戸徳川家からの拝領の紋。
一家は千年近く立原村に居たと思われます鹿島氏旧臣の方々。紋は『藤』です。
以前、常陸大宮市の郷土史家の方から拝受いたしました昭和の新聞の切れはしに立原家の記事がありまして、とても勉強になる記事で何度も読み返しました。
しかし先日気付きましたのは『立原』の次の項目の『立花』に私が求めていた答えの一つが記載されておりました。
ざっくり説明いたしますと、『橘』という地名や名字は勅命により(たぶん鎌倉時代かな?)名を変え、名字は『椿』、地名は『立花』に変わったそうです。
ということは要するに偉い方々が高貴な『橘』の名を下々が使うな、と命令したということですよね。橘の名字を立花にした人もいたのではないでしょうか。
私の家の墓地の裏には天狗党の立花氏の墓があり、『立花』と彫られておりますが、墓誌等には『橘』と彫られており謎でした。
すなわち名字は『立花』、本姓は『橘』なのでしょう。
また、茨城県の立花姓の墓を何件か見てましたが、家紋は『丸に橘』でした。何でだろう?と思ってましたが、ようするに本流の橘氏の家紋である『橘』に分家のお約束の『丸』を付け『丸に橘』になったのかもと推測できます。
『立花』と言いますとあの有名な戦国武将を思い出しますが、あの方の本姓は藤原氏だった気がします。家紋も違うはずです。
そういえば池坊の家紋もたしか『立花』と云い、『丸に菊座橘』でした。
伊井家と仲良しの日蓮宗の寺紋は『井』の中に『橘』ですが橘のデザインは『根』があったり『久世橘』だったり寺によって色々なのかと思いました。
立原家もしかり、『立花』と記す家もあり、古い墓石はほとんどがノーマル橘紋ではありません。
常陸戦国武将の真壁氏もよくよく調べてみると丸の無い『久世橘』だったりします。
やはり当時の人達は勅命を守り、高貴な『橘』をそのまま名字や家紋や村名に使うのはやめたのでしょうか。
きっと橘氏の嫡流家は丸の無い『橘』紋なのでしょうね。橘寺も橘紋ですし。
後日ご参拝いたしまして気付いた事は、同じ橘紋でもあちらは根有が多く、こちらはほぼ根の無い『丸に菊座橘』でありました。
距離も少しありますし、恐らくは飯島村の立原家にもルーツの違う家が二つ以上有ったのだろうと推察できます。
こういうパターンは他の地域にも見られまして、下大野、東石川、大宮、鯉淵、等がそのパターンだと思います。
戦国末期、佐竹氏の秋田引越しについていかぬ者やついていけぬ者が何かの縁があってその村に土着したのでしょう。でなければお隣がルーツの違う同姓何て事はありえませんよね。
真壁氏とは常陸国の勝ち組の豪族であり、常陸平氏のスーパーエリートでして、室町中期~後期には佐竹氏に従います、たしか。
その真壁氏を同じ常陸平氏の立原氏が知らないわけありません。しかも真壁氏は常陸平氏の本流中の本流の多気氏から分家したのに対し、立原氏は本流から分家した家の分家の分家のようです。しかも家祖の立原久幹の母親は鹿島成幹の側室か妾でして、庶家であります。
家格が段違いの真壁氏の紋所は『久世橘』のようです。しかも丸無しということはかなり古くから使われているのでしょう。
立原家も久世橘は丸付きで多く使われてます。江戸氏旧臣と思われます立原家は『根無し橘』とも云います。(那珂郡野上、東石川、茨城郡飯富、飯島等)。
大掾氏旧臣(地域的に恐らく家臣、もしくは領民)の立原家も丸に久世橘をあしらっている家が多くあります。
しかし佐竹氏旧臣の家紋には丸が有れ無かれ久世橘は見られません(あったら教えてください)。久世橘の実の皺を2本除いたデザインでしたら、秋田の佐竹旧臣立原家、東石川の立原家(地域的に江戸氏家臣?→後に佐竹氏家臣)があります。
もしかしたら真壁氏に配慮したのでしょうか?
真壁氏より立原氏の方が早くに佐竹家臣となっておりますが、圧倒的に武力、領地、家格が上の真壁氏が軍門に下った時点で、立原は同じ久世橘にアレンジをしたのかもしれません。
後に江戸時代になると同じ村の中の同族でも家を区別するためか、オリジナル橘紋が多く見受けられます。水戸徳川家に召し抱えられ、士分や郷士になると亀甲紋を拝領され、旧家中の旧家や武士一筋の立原家の紋所は本来なんだったのか分からなくなってしまいました。
まず佐竹氏家臣『立原雅禾介』は『立原雅楽介』ですね。
情報元も『禾』だったので崩し字を見誤ったのでしょう。
立原雅楽介は戦国時代の立原家の中ではダントツのエリート侍だったのかと思われます。
時代によっては雅楽介の名前を世襲してたり、親戚が使っていたりするのでいっぱいいます。
二つ目に江戸氏旧臣録の『立原大学』は小幡村を領してると記されておりますが、本当は大部村です。情報元でも大部村とありますので、ただたんにミスったのでしょう。大部村は今の水戸市飯富になります。
小幡村を領してたのは『立原内記』です。
情報元も『禾』だったので崩し字を見誤ったのでしょう。
立原雅楽介は戦国時代の立原家の中ではダントツのエリート侍だったのかと思われます。
時代によっては雅楽介の名前を世襲してたり、親戚が使っていたりするのでいっぱいいます。
二つ目に江戸氏旧臣録の『立原大学』は小幡村を領してると記されておりますが、本当は大部村です。情報元でも大部村とありますので、ただたんにミスったのでしょう。大部村は今の水戸市飯富になります。
小幡村を領してたのは『立原内記』です。
古文書を見ますとよく出てくる名前です。
同一人物かと調べてみますと、違う様です。
一人は一番知られております立原民部でして、江戸氏の陪臣で神生氏の家臣であり、水戸藩士の立原翠軒の遠い親戚にあたるようです。
(顕幹流分家子孫)
二人目は室町中期の佐竹家臣。子孫は茨城県にも居るとみられ、嫡流は秋田県士族となりました。
(久幹流子孫)
三人目は応永の頃の武士だそうで、詳しくはわかりません。その情報をお持ちの立原氏は江戸氏の旧臣かと思われるのでその『民部』も江戸氏家臣でしょうか。
(顕幹流分家子孫)
※顕幹はおそらくは久幹の孫の可能性有り。立原顕幹系図ですと顕幹は鹿島成幹の『三男』とありますが鹿島成幹の三男は別人なので、立原久幹の息子、立原盛幹の書き誤りかとの指摘が明治期にありました。
デリケートな問題なのでそっとしておきます。
同一人物かと調べてみますと、違う様です。
一人は一番知られております立原民部でして、江戸氏の陪臣で神生氏の家臣であり、水戸藩士の立原翠軒の遠い親戚にあたるようです。
(顕幹流分家子孫)
二人目は室町中期の佐竹家臣。子孫は茨城県にも居るとみられ、嫡流は秋田県士族となりました。
(久幹流子孫)
三人目は応永の頃の武士だそうで、詳しくはわかりません。その情報をお持ちの立原氏は江戸氏の旧臣かと思われるのでその『民部』も江戸氏家臣でしょうか。
(顕幹流分家子孫)
※顕幹はおそらくは久幹の孫の可能性有り。立原顕幹系図ですと顕幹は鹿島成幹の『三男』とありますが鹿島成幹の三男は別人なので、立原久幹の息子、立原盛幹の書き誤りかとの指摘が明治期にありました。
デリケートな問題なのでそっとしておきます。

