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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
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プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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 どの苗字にも総本家的なものがあると思います。
僕の家系が立原家総本家に繋がるか証明はほぼ不可能ですが、理論上は繋がっております総本家のお墓へお参りしました。

茨城県の人名録(紳士録?)には『立原平四郎』という方の項目がありまして、読んでみますとどうやら総本家っぽいです。
ざっと言うと『平久幹の末裔で天正期に佐竹氏に滅ぼされ、野に下り立原村の村長』これは総本家でほぼ間違いないと思います。墓石にも桓武平氏大掾系の苗字の本家格が名乗る通字『幹』が記されておりました。
しかし僕がまだ「おやっ」と思うのは、何故、郷土史の立原文書の系図には『幹』を通字とする総本家の系図がないのか。
また、立原城を鎌倉期、室町初期に出て、江戸氏家臣、徳川家郷士等で大活躍の『三盛亀甲』紋の立原一族の本家は『幹』を通字としてます(たしか…)。

ここで悩んでしまいました。本拠地に残る=本家ではないからです。本拠地に残る=本家、が大多数でしょうがそうでないパターンもよくあります。
『三盛亀甲』の総本家(多分)の立原様から頂いた文書には分家した時の当主には『幹』が名前に付いてます。鎌倉、室町の時代は先祖伝来の通字を兄弟でシェアするのでしょうか?とりあえずヤフー知恵袋さんと名字7000で調べたいと思います。
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『根なしの橘』のネーミングの由来を何通りか考えてました。
1、家紋研究家の方からのご教示で、根のある橘紋の対比でこの名前になった。

2、僕の家系のの二代目から五代目まで立花を名乗っていたため「仮の名字は立花だけどルーツは違うよ」という感じ。

3、本家は本百姓で当家は江戸中期に足軽になりました。その土地に根付いた本家に対してあっちこっちに派遣される水戸足軽…故になのか。

どうやら1なのかと思いはじめました。
何故かと言いますと、まず水戸市某地区と常陸太田市某地区の立原家は「三つ足橘」や菊座橘の足付き、普通の橘に足付き等の家紋が多数見受けられたからです。
地域にもよりますが「足付き」は「根付き」とも言うそうです。
そしてなにより常陸大宮市某地区の橘紋の立原様から御自分の家は「根なしの橘」だと伺いました。鳥肌がたちましたね。五年近く調べても、どの家紋辞書にも文献にも記されてなかったこの五文字が出てくるなんて。
この方の御先祖様は文献、郷土史等に載っておりまして、立原氏の中では有名です。

僕の本家と戦国時代、江戸初期の由緒も同じです。もし同家だとしたらそれら「根付き橘」一族からの分家なのでしょうか?
とにかく根付き橘の一族から聞いてみるしかありませんね。
橘紋の立原氏を探してみるとメジャーなのが常陸大宮の立原氏、マイナーな私の家系の立原氏、その他橘紋はあっちこっちにいるみたいです。
文献に載ってるのは常陸大宮の立原氏で、山方町の郷土史、その他多数の文献に記されておりますがwikiには載ってません。wikiには『丸に三つ盛り亀甲に花角』の一族が載ってます。
水戸黄門様が佐竹旧臣を郷士にした二家の立原氏も三つ盛り亀甲です。元佐竹氏家臣と元江戸氏家臣。そして立原で一番有名な水戸藩士、立原翠軒公も三つ盛り亀甲です。
では、その一族の総本家は?と言いますと、私の浅はかな読みですと旧江戸氏家臣、後に50石の郷士の家系ではないでしょうか?戦国時代期の給料もダントツですし、現当主の方に見せて頂いた古文書に立原城を出て、分家した最初の三つ盛り亀甲立原氏の名前(諱)も記されておれましたし。


さて、橘紋の立原氏はどうでしょうか?まだまだわからない事だらけです。
とりあえず戦国時代の文献には『丸立花』と記されており、常陸大宮市もひたちなか市も本家筋は『菊座橘』『久世橘』が主流みたいです。
私の本家は久世橘でして、そういえば久世橘には足(根)のある『三つ足橘』があります。故に久世橘には根が無い、すなわち『根なしの橘』なのか?と思いましたがどうでしょうか?私の家系の家紋は祖父の代ではネーミングこそ根なしの橘でしたがデザインは普通の『丸に橘』です。古い墓石には家紋が刻まれていない事はよくあると思います。曾祖父や高祖父やその前のじいさんは婿養子なのでよく分からなかったのかな?

これから橘紋の立原家を探し、由緒、言い伝え等を伺っていきたいと思います。
先祖調査ウェブサイトを見てますと『郷土史家の力を借りる』という内容が書かれております。
僕も調査を始めて三年になりますがこの度僕も郷土史家様の力をお借りしました。

僕の家系が270年前に分家しました時の本家が茨城県H市にあります。本家の墓地を調べてますと他家に立派な墓地がありました。何か情報を得られまいかと塔婆に記されてます現当主の方の名前をメモりまして郷土史、ネット等で調べましたところ郷土史家かと思われます。それを知ったのはその方にお手紙をお出しした後でした。
その後、その方から返信の手紙、お電話を頂きましたがとてもとても親切な方で感動致しました。
その方は僕と名字はちがいますが立原の血も入っているようで遠い遠い遠戚となります。マニアックな話も聞けまして感謝感謝です。

やはり郷土史家というのはその地域を愛し、地域を研究し、後世に伝える志の高い方々ですので、僕のような個人の者にも力添えしてくれるのかもしれません。

心より感謝申し上げます。
昔はよく火事がありました。
僕が江戸時代以降の御本家の方々に伺いましたところ、丸に橘紋(佐竹氏家臣)の常陸大宮市住まいの立原家の家系図は明治頃には確かにあったそうです。しかしいつの間にか無くなってしまったそうです。文献にもよく載っているメジャーな立原家ですが何故かWikipediaにはまだ載ってません。

次に、ひたちなか市の僕の本家のお隣さんの本家の当主の方から御教示頂きました。家紋は常陸大宮市の家紋と全く同じです(丸に菊座橘)。何代か前に火事により、家系図、古文書類は燃えてしまったそうです。家紋も由緒も常陸大宮市の本家と同じです。きっと江戸時代に入り、佐竹氏についても行けず、かといって常陸大宮市の本家の土地にもいられず、戦友の鴨志田氏を頼ってひたちなか市で農となったのでしょうか?

ちなみにですが、なんの証拠もなく憶測でありますが常陸大宮市の立原氏とひたちなか市の立原氏を同族と推測するのには訳があります。
まず由緒が同じ。佐竹氏家臣後帰農。

次に家紋がまったく同じ。どちらが上か下かわかりませんが菊座橘と久世橘が見受けられます。しかし本家分家共に時代の流れ、興味の無さからでしょうか、現在は皆『丸に橘』になっていってる気がします。


次に先日もご紹介しましたが三つ盛り亀甲の立原本家です。やはり古文書類が燃えたか無くなったかで江戸後期に改めて由緒を書いてます。
ということは当時の当主は由緒等を記憶していたのでしょうね。



家紋、三つ盛亀甲の立原氏の総本家らしき方にお手紙をお出ししましたら、親切丁寧にご返事、ご教示頂きました。
どの文献にも掲載されていない(多分です)三つ盛り亀甲の立原氏の祖、すなわち当時の立原城主の子の名が記されており大変驚きました。

プライバシー的にあまり詳しく記述できませんが、この方の家系は鎌倉時代に立原城を出て、戦国時代には江戸氏の家臣です(Wikipediaにも載ってます)。江戸時代初期は帰農し、徳川光國公により郷士になります。幕末の水戸藩の名簿にも掲載されており、明治に入り士族に。現当主の方も大変立派な方で茨城県の紳士録(人名録?)にも掲載されておりました。

三つ盛亀甲の立原氏は常陸太田市にも本家筋がありましてどちらが本家かわかりません。

立原翠軒公、立原道造氏も三つ盛亀甲ですが亀甲紋の中が『花』だけでなく『平』『東』と刻まれております。故にどちらかの分家かと思われます。翠軒公の本家が『茨城県民のルーツ』という本に掲載されてました。翠軒公は立原家の中で一番メジャーなのでWikipediaにも角川地名辞典にも系図が載ってます。


きっとまだまだ立原氏の情報を持っている方々が茨城県と秋田県にはいるかと思われます。もっともっと追求していきたいですね。
そもそも先祖も家系も全く興味なく、ちょっと珍しい名字でなんだか嬉しい気持ち位でした。

大人になり子供が生まれ、自分の家のお墓が気になり始めました。
その頃から神社やスピリチュアル、日本史が好きで自分は出雲系の末裔だったらいいなあ、なんて事を思ってました。

長男の兄に男子がなく、たまたま僕に男子が産まれたので、自分の家のお墓を調べようと更に思いました。


ちょうどその頃、白虎隊の末裔の方と仕事先で出会い、先祖調査のノウハウを教えて頂き、更に興味が出てきた次第であります。

『根なしの橘』という家紋をご存知でしょうか?

僕が小さい時に父から聞いたのがたしか初めてで、僕の家系の家紋だそうです。

当時は全く興味もなく、先祖は水戸の足軽だったと言い伝えられてましたが僕も父も興味がなく時は過ぎていきました。
名字で立原さんは5000人程いるそうです。
立原氏でよく知られているのが桓武平氏、続いて出雲地方の源氏、帰化エリート朝鮮民族の立原氏、少数ですが藤原氏を祖とする立原氏もいるそうです。

私は主に桓武平氏の立原氏を綴らせて頂きたいと思います。
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