茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
関東、東北地方はこちらの橘紋が多かったはずです。丸が有りますが立原家の最も古い家の一家では丸の無い橘です。明治時代の当主の方は「立花」と記しておりました。これが本当の橘かもしれません。
もし拙ブログを御覧のあなた様が橘紋でしたら、こちらの画像をお使いいただいて問題ありません。どうぞお断りなくご使用ください。
家紋は本来自由なものです。先祖の縛りからか変えてはいけないという意識もありますが、過去の事例をみても一家の節目で変えてるように思います。
私はこのデザインの橘を復活させたいと思います。
現在の紋帳や家紋辞典の橘の名称は間違っています。しかしそれはしかたない事でもあります。
私が生きている間になんとか出来ないでしょうけど、「橘紋にはこういう歴史がある」ということを何とか残したいですね。
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家紋が生まれる前から橘は朝廷より尊い物として扱われていたそうです。
やがて平安時代に貴族が家紋の原型的な物を用い始め、鎌倉時代に武家に家紋ブームやって来て鎌倉中期にはどの武家も家紋持っていたそうですね。
ではいつ橘は家紋になったのでしょうか?
橘紋を用いたであろう橘氏の嫡流は跡絶え、分流が江戸時代に梅宮大社を建てたと聞いております。紋は京橘ですが少しデザインが違います。
常陸平氏の真壁氏は鎌倉初期には家を興しており、橘を用いてます。井伊家や久世家より橘を用いたのは古いかもしれません。拙ブログ的に言うと真壁氏は江戸橘です。一般的な表現ですと「丸無し久世橘」となるのでしょうか。しかし昔はこれをただたんに「橘」と云ってました。
で、私の推論で恐縮ですが、橘の元となったデザインは果実の中のデザイン(丸や筋)が無いシンプルな橘がスタートではないでしょうか?
京橘より江戸橘のデザインが恐らくは先でしょう。何故かと言いますと、古い紋帳や古い着物の資料や江戸時代の武鑑を見ても京橘は…今のところ発見できてません。しかし明治になり、あっという間に紋帳は京橘だらけになり、今や橘といったら京橘です。
下記の画像が橘紋の原型ではないかと思います。
(一円玉は近代のものです)

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
(楽天市場様より引用)
やがて平安時代に貴族が家紋の原型的な物を用い始め、鎌倉時代に武家に家紋ブームやって来て鎌倉中期にはどの武家も家紋持っていたそうですね。
ではいつ橘は家紋になったのでしょうか?
橘紋を用いたであろう橘氏の嫡流は跡絶え、分流が江戸時代に梅宮大社を建てたと聞いております。紋は京橘ですが少しデザインが違います。
常陸平氏の真壁氏は鎌倉初期には家を興しており、橘を用いてます。井伊家や久世家より橘を用いたのは古いかもしれません。拙ブログ的に言うと真壁氏は江戸橘です。一般的な表現ですと「丸無し久世橘」となるのでしょうか。しかし昔はこれをただたんに「橘」と云ってました。
で、私の推論で恐縮ですが、橘の元となったデザインは果実の中のデザイン(丸や筋)が無いシンプルな橘がスタートではないでしょうか?
京橘より江戸橘のデザインが恐らくは先でしょう。何故かと言いますと、古い紋帳や古い着物の資料や江戸時代の武鑑を見ても京橘は…今のところ発見できてません。しかし明治になり、あっという間に紋帳は京橘だらけになり、今や橘といったら京橘です。
下記の画像が橘紋の原型ではないかと思います。
(一円玉は近代のものです)
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
(楽天市場様より引用)
(人文学共同センター様より引用)
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
松平主殿頭様の副紋です。上は江戸時代の絵、江戸橘ですね。下は明治時代の絵、菊橘です。
憶測ですが、大名も一般庶民にもこの現象はよく見られます。
仮説ですが…
明治になり京橘こそ本当の橘紋だよという圧力的なものがあり、京橘は関東に広まり、今までの江戸橘が菊橘に似ているため我が家の紋所はこの紋が本来のデザインじゃね?という推測から明治時代に菊橘が広まった。根が有る無しで家系を分けていた当時の橘紋の家々は、紋帳にも有るように菊橘には菊座橘もあり菊座の台は根にも見えます。そこで庶民は「ああ、我等の家紋は本来はこれに違いない!」と、橘紋の家も、石材屋も、家紋研究者も思ったのではないでしょうか。故に橘紋立原家も明治~昭和にかけて菊橘と菊座橘が多いのかと推測しました。
あとはその推測から石材屋が勝手に彫った可能性もありますね。
茨城県立原家に限りますが、本当にこのパターンは多く、同じ家の家紋が菊橘になったり、江戸橘になったり、京橘になったりしております。
まだまだ研究途中ですし、私なりの解釈ですが分かってきました。
まず、情報源は国立国会図書館デジタルアーカイブや各地の文書館等にて明治時代の紋帳、さらに昔の上級武家の橘紋、家紋辞書等、昔の着物の橘模様を参考にしました。また茨城県各地の立原家の墓石、他名字の橘紋の墓石、埼玉県の墓地等で古い墓を調べました。
それらを考慮しますとやはり昨今のポピュラーな橘デザインは関西から明治時代に伝えられたと思います。元々の橘デザインは真壁氏の橘紋や、久世氏の久世橘、それらから2本筋を無くした橘紋が基本だと思います。その2本筋を無くした橘は秋田藩士立原家も用いており、私の家の本家も墓石に刻まれておりました。また、江戸時代にアレンジが加えられたのが彦根橘でしょう。そもそも丸が有る時点でそんなに古くない家紋です。
関西からの橘紋は茶実紋にそっくりです。どっちが古いか分かりませんが関東(特に常陸)には無かったと思います。
※画像は江戸時代の彦根橘(国立国会図書館より引用)
まず、情報源は国立国会図書館デジタルアーカイブや各地の文書館等にて明治時代の紋帳、さらに昔の上級武家の橘紋、家紋辞書等、昔の着物の橘模様を参考にしました。また茨城県各地の立原家の墓石、他名字の橘紋の墓石、埼玉県の墓地等で古い墓を調べました。
それらを考慮しますとやはり昨今のポピュラーな橘デザインは関西から明治時代に伝えられたと思います。元々の橘デザインは真壁氏の橘紋や、久世氏の久世橘、それらから2本筋を無くした橘紋が基本だと思います。その2本筋を無くした橘は秋田藩士立原家も用いており、私の家の本家も墓石に刻まれておりました。また、江戸時代にアレンジが加えられたのが彦根橘でしょう。そもそも丸が有る時点でそんなに古くない家紋です。
関西からの橘紋は茶実紋にそっくりです。どっちが古いか分かりませんが関東(特に常陸)には無かったと思います。
※画像は江戸時代の彦根橘(国立国会図書館より引用)
新編常陸国史には立原について七代記しております。中世の立原にも様々な系図がありますが、水戸藩よりお墨付きの立原系図はこちらの様です。故にウィキペディアでもこの系図が紹介されています。
立原の地は元は立原氏の物だった様ですが、鎌倉時代に同族の常陸平氏の行方氏が立原領地を買ったり、禅秀の乱(1416年)の後には同族の烟田氏が支配してます。
ようするに初代と二代目以降の立原の地は、住んでいて立原城を管理してはいるけど、その時の領主に上納金を払っていたのかと私は思います。半分侍半分百姓的な。一応は鹿島六頭の一角との情報もありますので、本家の鹿島氏及び鹿島神宮にも貢いでいたのでしょうか?
そして記されている最後の城主の立原詮幹。その子供や子孫が気になります。詮幹の時代は南北朝時代と察することができます。ちょうどこの頃に他の立原系図でも立原城を出ていく人が見られます。
立原詮幹の子供の一人は後の小幡立原の祖となる人もいます。
そしてこの度ぶったまげる系図を発見いたしました。立原詮幹の子孫で中世鹿島地区に残った立原氏の系図です。筋で言ったら嫡流ですね。かなりの名家の家柄と存じます。
しかしまだ当主の方にアポがとれていませんので公開は控えたいと思います。
立原の地は元は立原氏の物だった様ですが、鎌倉時代に同族の常陸平氏の行方氏が立原領地を買ったり、禅秀の乱(1416年)の後には同族の烟田氏が支配してます。
ようするに初代と二代目以降の立原の地は、住んでいて立原城を管理してはいるけど、その時の領主に上納金を払っていたのかと私は思います。半分侍半分百姓的な。一応は鹿島六頭の一角との情報もありますので、本家の鹿島氏及び鹿島神宮にも貢いでいたのでしょうか?
そして記されている最後の城主の立原詮幹。その子供や子孫が気になります。詮幹の時代は南北朝時代と察することができます。ちょうどこの頃に他の立原系図でも立原城を出ていく人が見られます。
立原詮幹の子供の一人は後の小幡立原の祖となる人もいます。
そしてこの度ぶったまげる系図を発見いたしました。立原詮幹の子孫で中世鹿島地区に残った立原氏の系図です。筋で言ったら嫡流ですね。かなりの名家の家柄と存じます。
しかしまだ当主の方にアポがとれていませんので公開は控えたいと思います。
全世界で立原姓が一番多い地域は水戸市飯島です。一族の共同墓地は二ヶ所あり、どちらも根無橘と根有橘が見られますが一方は根無が多く、一方は根有が多かったりします。
どちらも中世からの系図は無いようですが、根有の一族には常陸江戸氏家臣の「立原雅楽允」の記録があります。
そして先日読みました郷土史には戦国期に飯島を納めていた江戸氏家臣の家臣に「立原主水」がいたそうです。
これで飯島の立原家が二系統なのも納得です。
私の調査にご協力くださいました水戸市飯島のとある立原様がお亡くなりになられておりました。墓地調査のおり気付きました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
私がもう50年早く生まれていたら、立原の歴史について沢山語り合えた事でしょう。
Wikipediaにも記載されております由緒正しき秋田藩士立原家の嫡流の方とお電話にてお話することができました。
とても親切な御方でして、色々とご教示賜りました。心より感謝申し上げます。
残念なことに古文書等は戦災により焼失してしまったそうです。また、子孫諸々の方々はご先祖様に興味が全く無いそうです。
幕末から明治初期に立原家の本末を明らかにしようとご活動していたこちらの当時の当主、立原政蔵さんの意思は私が受け継がせていただきます。頑張ります!
と、言いましても郊外の旧家や城下の家々も火災、戦災、子孫がポイしちゃう、プライバシー云々等、立原家調査は私の世代でラストチャンスかと思われます。
次回はまだ解明されていない立原家々の謎を書きたいと思います。
(家紋ドットネット様より引用)
立原政蔵家の家紋は「橘」
丸が無く、京都からやって来た主流の橘とも違うデザインであります。相当古い家柄です。と言いますか、850年位続いてる家柄でして、常陸平氏立原家の中でも超特別です。
立原甚蔵家の家紋は「五木瓜釘貫」でした。ビックリです。恐らくはルーツである茨城県立原家のどの家紋にもない家紋です。佐竹氏からの拝領紋でしょうか?それとも茨城県にもこの紋を用いる立原家があったのでしょうか?
実は茨城県立原家の家紋に三盛亀甲花菱がありますがこちらは水戸藩より拝領です。小幡立原家はこちらの紋を拝領する前の家紋は伝わっていないようです。しかし小幡立原家の全件調査をしたわけではないのでもしかしたら室町期以前の紋が分かるかもしれません。
家紋は違えど家祖は同じと言う事がありますが、すなわち鎌倉時代の武家に家紋ブームが訪れた時に、同じ名字であっても既に分家していたり、住んでいる所が違ったりするんでしょうね。立原家の家祖と言われている立原久幹、立原顕幹、その他にもいますがその頃はまだ武士や軍事貴族等に家紋ブームは来てないと思います。
立原富忠家と立原源之助家はまだ未確認であります。
さてさて、これにて秋田藩立原家のネタはとりあえず終了いたします。
これで今あるネタはすっからかんです。しばらくブログは書きません。
明日から「立原政蔵家」と「立原甚蔵家」のご子孫の方々にお手紙をお出ししたいと思います。
何で子孫の住所が分かるんだ?と思われるると思いますが、探偵も雇ってませんし、お寺の方にも聞いてません。今はプライバシーが厳しくてお寺もピリピリしております。ただ、ヒントが落ちていたので私なりに解釈し、ご子孫の住んでいる所を割り出しました。
今月以降はこちらの2家にお手紙をすることに集中いたします。
また面白い情報がありましたらアップしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
立原家の歴史を後世に残していきましょう。
秋田藩立原家は幕末期に四家あったそうです。
①立原富忠家
②立原政蔵家
③立原甚蔵家
④立原源之助家
①と②は佐竹氏国替えの時に茨城より秋田に来た、間違いなく旧臣でしょう。
しかし③と④は全くわかりません。
もしくは①と③が私の解釈の逆かもしれません。
ようするに「立原富忠」=旧臣「立原富敬」の嫡流子孫と位置付けるのはまだ早いかもしれません。
④に関しては全く情報がなく、困っております。
②に関しましては明治初期の当主の「立原政蔵」氏が沢山情報を残してくださったのでよく分かります。
続く
①立原富忠家
②立原政蔵家
③立原甚蔵家
④立原源之助家
①と②は佐竹氏国替えの時に茨城より秋田に来た、間違いなく旧臣でしょう。
しかし③と④は全くわかりません。
もしくは①と③が私の解釈の逆かもしれません。
ようするに「立原富忠」=旧臣「立原富敬」の嫡流子孫と位置付けるのはまだ早いかもしれません。
④に関しては全く情報がなく、困っております。
②に関しましては明治初期の当主の「立原政蔵」氏が沢山情報を残してくださったのでよく分かります。
続く
茨城県歴史ファンでしたら常陸平氏の鹿嶋氏はご存知かと思います。その鹿嶋氏総本家が茨城県立歴史館に「立原系図」を寄贈してます。
恐らくは鹿嶋氏に仕えた立原家の中で一番エリートか旧家だったのでしょう。しかしそこで思うのが立原村の立原総本家こそ立原姓の鹿嶋氏家臣の筆頭ではなかったのか?と感じます。
その系図の嫡流家は名字を変えてます。
弟や親戚は討死したり立原村の百姓となっております。
嫡子の弟は旧館の有るところに依る、とありますがそれが立原村なのか鹿島神宮周辺なのか分かりません。
もしですよ、旧館が立原村の立原城(館)ですとかなり問題です。
ここら辺の真相は鹿嶋市立原家の全世帯に質問をしてから考えたいと思います。
鹿嶋氏家臣、立原将常(室町中期~後期)
恐らくは鹿嶋氏に仕えた立原家の中で一番エリートか旧家だったのでしょう。しかしそこで思うのが立原村の立原総本家こそ立原姓の鹿嶋氏家臣の筆頭ではなかったのか?と感じます。
その系図の嫡流家は名字を変えてます。
弟や親戚は討死したり立原村の百姓となっております。
嫡子の弟は旧館の有るところに依る、とありますがそれが立原村なのか鹿島神宮周辺なのか分かりません。
もしですよ、旧館が立原村の立原城(館)ですとかなり問題です。
ここら辺の真相は鹿嶋市立原家の全世帯に質問をしてから考えたいと思います。
鹿嶋氏家臣、立原将常(室町中期~後期)
↓
常直
↓
常治
↓
①直政、②常成、③常?(読めませんでした)
↓
①常知②常助
↓
①常章
↓
①常満(帰農)②常隆(帰農)
鹿嶋市は謎でいっぱいです。
鹿嶋市は謎でいっぱいです。
秋田藩は久保田藩とも云うそうです。私は秋田藩で書かせていただきます。
もともと秋田の立原は有名でして、Wikipediaにも項目にあります。しかし由緒は様々でして、まるっきり分からない家系もあります。
一番有名なのはWikipediaにもありますように佐竹氏の転封の後に追いかけ移住した佐竹氏家臣「立原富敬」の家です。
系図持たずに移住したためか、本姓(源平藤橘等)は不詳とのこと。
もう一家有名なのは佐竹氏重臣の小野岡氏の家臣、立原家です。
佐竹氏転封と共に秋田に移住しました。
こちらは本姓は「平」、本紋は「立花(丸無しの橘)」、替紋は「蝶(平氏の家紋)」、代々の諱は「幹(大掾一族の証)」とあり、立原家の総本家、総嫡流と言っても過言ではない家柄です。
そしてもう二軒、秋田藩士の立原家があることに「秋田県文書館」のデジタルコンテンツで分かりました。
秋田県藩士の明治以降の家臣録がありまして、そちらに士分の者、足軽の者が記されております。
続く
もともと秋田の立原は有名でして、Wikipediaにも項目にあります。しかし由緒は様々でして、まるっきり分からない家系もあります。
一番有名なのはWikipediaにもありますように佐竹氏の転封の後に追いかけ移住した佐竹氏家臣「立原富敬」の家です。
系図持たずに移住したためか、本姓(源平藤橘等)は不詳とのこと。
もう一家有名なのは佐竹氏重臣の小野岡氏の家臣、立原家です。
佐竹氏転封と共に秋田に移住しました。
こちらは本姓は「平」、本紋は「立花(丸無しの橘)」、替紋は「蝶(平氏の家紋)」、代々の諱は「幹(大掾一族の証)」とあり、立原家の総本家、総嫡流と言っても過言ではない家柄です。
そしてもう二軒、秋田藩士の立原家があることに「秋田県文書館」のデジタルコンテンツで分かりました。
秋田県藩士の明治以降の家臣録がありまして、そちらに士分の者、足軽の者が記されております。
続く
(親戚の立花家より寄贈の家系図)
いつもいつも同姓とはいえ他家の系図や由緒を無断でアップしていることを申し訳なく思ってます。
一応当時の当主が公表しているネタのみ書いておりますが、子や孫、子孫の方にしてみれば迷惑かもしれません。
もちろん公表しないでくれと云われたネタは一切書いておりませんし、近代の名前も控えております。
ということで、自家の事を公表しないのは卑怯ですので書かせていただきます。
もし拙家の先祖と繋がる方がいらっしゃいましたら是非ご連絡ください!
まず、遠祖は佐竹氏に仕え(名前はわかりません)、佐竹氏が茨城から秋田へ転封のおり、帰農しました。
佐竹氏にずっと仕えいたかはわからず、大掾氏旧臣録や他の立原家のパターンから察するに
鹿嶋氏→大掾氏→江戸氏→佐竹氏かもしれませんし、秋田立原家の様に鹿嶋氏→佐竹氏かもしれません。
江戸中期に外野村百姓立原次郎衛門より分家し、水戸藩の足軽となりました。おそらくは海防系の同心かと思われます。
初代、爲信(郡方勤務)
二代、惟高(海防、名字を立花と誤って登録)
三代、爲利(海防、先手同心手代)
三代目の爲利が諸生党の部隊の先陣で死亡し、四代目好之(立花氏)と五代目信清(立原氏)は士分にしてもらいました。諸生派から中立の立場になったそうです。
明治になり六代目信治で先祖が残した財産を上手く運用できず多くの農地を失ったそうです。
七代目の祖父五郎男はスーパーエリートでした。
続いて八代目の父、九代目の私は残念ながら先祖とは真逆のドン底であります。
とりあえず以上でございます。
次回は秋田藩士立原家について書かせていただきます。
大変残念でありますが、ハローページのサービスは終わってしまいました。
携帯電話の普及、プライバシーの観念から無用の長物となってしまいました。
私の立原調査で参考にしておりますアプリはハローページを元に作られております。
このアプリには感謝してます。地域ごとの立原家が年代別に記されるので、地域ごとの本家を調べるの活用いたしました。それに加えグーグルマップの衛星写真でお目当ての立原家の家や土地を拝見いたしますと…なんとなく勘で「ここは旧家だな」「ここが本家だろうな」などと推測しておりました。
しかし旧家であっても本家の定義は難しく、江戸期から明治期にかけて様々なストーリーがあり、土地があるからといって本家かといえばそんなことはなく、本末の財力が入れ替わるのはよくあることです。
携帯電話の普及、プライバシーの観念から無用の長物となってしまいました。
私の立原調査で参考にしておりますアプリはハローページを元に作られております。
このアプリには感謝してます。地域ごとの立原家が年代別に記されるので、地域ごとの本家を調べるの活用いたしました。それに加えグーグルマップの衛星写真でお目当ての立原家の家や土地を拝見いたしますと…なんとなく勘で「ここは旧家だな」「ここが本家だろうな」などと推測しておりました。
しかし旧家であっても本家の定義は難しく、江戸期から明治期にかけて様々なストーリーがあり、土地があるからといって本家かといえばそんなことはなく、本末の財力が入れ替わるのはよくあることです。
終了といいますか、全然調査が足りてないので後日きちんと調べてからまた書きたいと思います。
まだお手紙(アンケート入り)も送って無く、現地調査と図書館(デジタル)調査しかしておりません。
真実は口伝や、蔵の中に有ったりするものだと私は思っております。
鹿嶋市立原家でまた何か新しい情報が入りましたら書かせていただきます。
とりあえず次回は
「私の立原家」
と
「ハローページ終了」
について書きます。
まだお手紙(アンケート入り)も送って無く、現地調査と図書館(デジタル)調査しかしておりません。
真実は口伝や、蔵の中に有ったりするものだと私は思っております。
鹿嶋市立原家でまた何か新しい情報が入りましたら書かせていただきます。
とりあえず次回は
「私の立原家」
と
「ハローページ終了」
について書きます。
立原城跡、立原村の方々と棚木村の方々は
「丸に下がり藤」
でして、一軒だけ
「丸に上がり藤」
でした。
鹿嶋市の中心地の宮中は
「丸に橘」
でした。
立原村は鹿島神宮に近いですが、鹿島神宮に仕えた立原家は橘紋。
橘紋立原家は茨城県に多く見られますが、藤紋立原家は少なく、立原村、棚木、水戸市鯉淵、水戸市千波、水戸藩士墓地、にて見受けられました。
これは
藤紋=平貞盛流立原家
橘紋=平繁盛流(大掾一族)立原家
なのかもしれません。
しかし謎なのが千波と鯉淵は確か丸無しの家紋でした。
丸無し家紋は旧家中の旧家です。
立原村や近所の棚木が丸有りの藤紋なのは不思議です。何か理由があるのかウッカリなのか。
「丸に下がり藤」
でして、一軒だけ
「丸に上がり藤」
でした。
鹿嶋市の中心地の宮中は
「丸に橘」
でした。
立原村は鹿島神宮に近いですが、鹿島神宮に仕えた立原家は橘紋。
橘紋立原家は茨城県に多く見られますが、藤紋立原家は少なく、立原村、棚木、水戸市鯉淵、水戸市千波、水戸藩士墓地、にて見受けられました。
これは
藤紋=平貞盛流立原家
橘紋=平繁盛流(大掾一族)立原家
なのかもしれません。
しかし謎なのが千波と鯉淵は確か丸無しの家紋でした。
丸無し家紋は旧家中の旧家です。
立原村や近所の棚木が丸有りの藤紋なのは不思議です。何か理由があるのかウッカリなのか。
(国立国会図書館デジタルより引用)
通説で言えば立原家は
平貞盛の弟の平繁盛の嫡流の多気氏の分家、吉田氏からの更に分家の鹿嶋成幹の五男が立原五郎となったとされています。
しかし、立原総本家系図によりますと、平貞盛の子孫が立原を名乗り、繁盛流の鹿嶋久幹(立原五郎)を婿養子にしたとあります。そして通説の系図では久幹→盛幹→兼幹→重幹と続きますが総本家系図ですと久幹→盛幹→近忠→近清となります。
もちろん秋田立原系図も立原顕幹流系図も異なります。ただ、私が言ってきました「小幡立原が嫡流説」の理由は諱に「幹」を気れ目なく襲名し、通称は「五郎」を基準としながら嫡子ならではの名付け「太、小」等が用いられてるからです。それに小幡立原は水戸藩から最も認められてたと思われます。
しかし立原総本家はそもそも襲名している諱は「幹」ではありません。「近」「貞」「俊」が見受けられます。通称は「四郎」を大切にしてるようです。
ここで立原アイデンティティーは二つに別れると思いました。
貞盛流の立原氏嫡流は間違いなく立原総本家です。
しかしそこで一つ気になる事が出てきました。
続く
(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
この方がいなければ立原家の歴史は謎のまま闇に消えて行った事でしょう。
立原平四郎氏は立原村本家、立原氏総本家であり、その歴史と系図、古文書を惜しみなく公表してくださいました。今、私がこうして立原家調査が出来ているの、平四郎氏のお陰といっても過言ではありません。
立原氏の創成期を調べる上で避けては通れない家々は
☆鹿嶋旧臣立原村立原家
☆佐竹家臣秋田藩士立原家
☆佐竹旧臣大宮郷士立原家
☆江戸旧臣小幡郷士立原家
こちらの家々にはそれぞれの歴史があり、数多の分家を出してきました。
まずは立原村から書きたいと思います。こちらは立原平四郎氏のお陰で系図の99%が公表されております。
次回より立原平四郎氏が公表してくれた「立原家の由緒」を私なりに綴らせていただきます。
詳しくは国立国会図書館デジタルアーカイブで「立原平四郎略伝」と調べてみてください。
もう一つは「立原村鑑」
こちらは東京大学図書館に原本が有り、茨城県立歴史館に写しがあります。
立原村鑑には立原平四郎氏と秋田藩士立原政蔵氏のお手紙の内容の一部が見れます。
800年の時を越え、同族同姓であるのに主のために殺しあった侍の子孫が明治期にお手紙で再開しているのです。ロマンチックです。
次回は立原平四郎氏が伝えた系図について考えたいと思います。
(国立国会図書館デジタルより引用)
調べましたところどうやら昔から鹿島神宮にお仕えする家柄のようです。
鹿嶋市史や茨城県人名録によりますと、鹿島神宮関連の立原家は何軒かいらっしゃるそうです。
そこで謎なのがこちらの立原家は橘紋だったからです。鹿嶋市の立原家は元立原村の総本家の立原家々と同じく藤紋だと思ってました。
こんな近い距離で紋の違いが出るのですね。
名字は同じでも家紋が違うと言うのは重要で、①そもそも本姓が違うとか、②高貴な身分の方より家紋を拝領したとか、③落武者で変えた等。
①常陸立原と出雲立原は本姓が違いまして家紋は違います。
②「丸に三盛亀甲花菱」は水戸藩より拝領のようです。ゆえに本姓の違う常陸立原も出雲立原も水戸藩士なりますとこちらの紋になったようです。
そこで謎なのが立原村立原家が「丸に下がり藤」だからです。丸付きなのでそんなに古くない家紋でしょうから、やはり鹿島氏から拝領紋なのでは?と推測しております。
③一軒だけ知ってます。そちらは名字も変えてます。
↓鹿嶋市宮中で拝見いたしました立原家紋所になります。墓石の写真では失礼ですので、私の下手な絵をアップいたしました↓
こうして書かないと忘れてしまうので記しておきたいと思います。
一週間から二週間かけて書きたいです。一年位貯めたネタでして私自身頭を整理するためにもまとめていきたいです。
1、「鹿嶋市立原」
2、「立原村の立原家」
3、「秋田藩立原家」
4、「私の立原家」
5、「家祖立原顕幹が立原武幹だったとしたら」
6、「ハローページ終了」
これら書き終えましたら、また立原家調査に集中いたします。
いよいよ秋田藩士の丸の無い橘、家紋が武家で流行った800年以上前から紋所を変えていない立原家のご子孫がなんとなくわかったのでお手紙してみます。
その後、茨城県の北方から順にお手紙したいと思います。
一週間から二週間かけて書きたいです。一年位貯めたネタでして私自身頭を整理するためにもまとめていきたいです。
1、「鹿嶋市立原」
2、「立原村の立原家」
3、「秋田藩立原家」
4、「私の立原家」
5、「家祖立原顕幹が立原武幹だったとしたら」
6、「ハローページ終了」
これら書き終えましたら、また立原家調査に集中いたします。
いよいよ秋田藩士の丸の無い橘、家紋が武家で流行った800年以上前から紋所を変えていない立原家のご子孫がなんとなくわかったのでお手紙してみます。
その後、茨城県の北方から順にお手紙したいと思います。
びっくりしました。てっきり橘だと思っていたので墓前に行って驚いてしまいました。
佐竹氏領の立原家も江戸氏領の立原家もほとんど「橘」でした。しかし水戸藩士墓地の一軒と、水戸市鯉淵町の数軒、水戸市千波町の数軒が「上がり藤」と言うことは常陸武将の江戸氏家臣もしくは領民にも藤紋の立原は居たのでしょう。
はたして上がり藤紋立原家のルーツはどちらなのでしょうか?
やはり立原村(立原城跡)の立原家が「下がり藤」でありますのでそちらがルーツでしょうか?
しかし一つ謎が在りますも
鯉淵と千波には丸無しの上がり藤なんです。
そして立原村の立原家は丸有の上がりと下がりの藤紋でした。
私が知るどの個人所有の立原系図にも記されておりませんし、大掾系図にも、立原村鑑にも、鹿嶋総本家の立原系図にも詳しいことは記されておりません。しかし家紋は真実を隠しているように私は思います。
佐竹氏領の立原家も江戸氏領の立原家もほとんど「橘」でした。しかし水戸藩士墓地の一軒と、水戸市鯉淵町の数軒、水戸市千波町の数軒が「上がり藤」と言うことは常陸武将の江戸氏家臣もしくは領民にも藤紋の立原は居たのでしょう。
はたして上がり藤紋立原家のルーツはどちらなのでしょうか?
やはり立原村(立原城跡)の立原家が「下がり藤」でありますのでそちらがルーツでしょうか?
しかし一つ謎が在りますも
鯉淵と千波には丸無しの上がり藤なんです。
そして立原村の立原家は丸有の上がりと下がりの藤紋でした。
私が知るどの個人所有の立原系図にも記されておりませんし、大掾系図にも、立原村鑑にも、鹿嶋総本家の立原系図にも詳しいことは記されておりません。しかし家紋は真実を隠しているように私は思います。
(ヤフオクより引用。昔の彦根橘のようです。)
まだまだ分からない事だらけですが、わかる範囲で常陸立原家の橘紋についてまとめてみます。
そもそも家紋はシンプルデザインから始まり、分家により変化していくという事を考慮しますと、800年前の立原家橘紋は真壁氏と同じく「橘」(江戸紋、明治になり久世橘と呼ばれる)であり、600年前頃に南北朝や禅秀の乱が起こり、立原の血筋を残すためか、節操が違うためか、食いぶちのためか分かりませんが、佐竹氏に仕える者、大掾氏に仕える者、今のまま鹿嶋氏に従う者に分かれようです。
そのタイミングで橘紋に「根(足、台)」を加えたのでしょうか?
なんせ明治時代に入り、京都家紋マニア集団により家紋は統一されましたし、立原の総本家筋の家々は水戸藩より三盛亀甲紋を拝領し、立原村の立原家は元々「下がり藤」です。
橘紋で一番古いのはやはり秋田立原家ですね。
子孫の方々にアプローチしたいと思います。
しかし茨城立原ミステリーは常陸岩手町にもあります。なんと南北朝争乱期より前に土着してるようです。その御紋は「丸橘」であり根有りです。
今のところ丸の無い立原氏の家紋は秋田立原家のみです。やはり900年一度も百姓を経験しておらず、ずっと武家だったのは秋田藩士の立原家だけです。
丸が無いのは創成期からの紋所だと思われます。
次回は立原村の立原について書きたいと思います。
間違いなく江戸初期までは武士から農民から町人まで自家の紋はわかっていたはずです。
やはり長い長い江戸時代の間に基本となる立原家の定紋も、分家を繰り返し、また分家間でも違いを出すためにオリジナル橘をデザインしたのかもしれません。
そして家紋革命が明治時代に訪れます。京都の家紋関係を生業とする人達が日本全国の多種多様の家紋をある程度まとめる運動をしたそうです。
そして関東の橘紋の基本中の基本デザインの橘は大名の久世家が用いていたためか、「久世橘」と命名されたようです。
橘紋で一番有名な井伊氏も「彦根橘」等と呼ばれるようになりました。多分ですが、井伊家の家紋は紋帳にもよりますが初期は「江戸橘紋」であり、江戸時代に入り、あの変わった橘になったんだと思います。
とにかく明治以降の茨城県橘紋の立原家は家紋がぐちゃぐちゃです。今はほとんどの家が「京橘」になってしまってますが、ちょっと前の世代の墓石にはかなり迷いのある橘紋が見受けられます。
さてさて、私が追い求めております、900年前の元祖立原家橘紋はいったいどんな家紋だったのでしょうか。
やはり長い長い江戸時代の間に基本となる立原家の定紋も、分家を繰り返し、また分家間でも違いを出すためにオリジナル橘をデザインしたのかもしれません。
そして家紋革命が明治時代に訪れます。京都の家紋関係を生業とする人達が日本全国の多種多様の家紋をある程度まとめる運動をしたそうです。
そして関東の橘紋の基本中の基本デザインの橘は大名の久世家が用いていたためか、「久世橘」と命名されたようです。
橘紋で一番有名な井伊氏も「彦根橘」等と呼ばれるようになりました。多分ですが、井伊家の家紋は紋帳にもよりますが初期は「江戸橘紋」であり、江戸時代に入り、あの変わった橘になったんだと思います。
とにかく明治以降の茨城県橘紋の立原家は家紋がぐちゃぐちゃです。今はほとんどの家が「京橘」になってしまってますが、ちょっと前の世代の墓石にはかなり迷いのある橘紋が見受けられます。
さてさて、私が追い求めております、900年前の元祖立原家橘紋はいったいどんな家紋だったのでしょうか。

