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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
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プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
五、六年かけて仕事の合間に、家族に内緒で茨城県各地の立原家墓地を参拝及び研究してまいりました。

圧倒的に橘紋が多いです。
江戸期のエリート農家や戦国時代のエリート侍の家紋は『三盛亀甲』系の家紋。

立原城や立原村にとどまった一族は『藤』。水戸市におそらく江戸氏旧臣の一族も藤でした。(←まだコンタクトをとっておりません)

鹿島より南部には梅や茗荷などの一族(まだコンタクトとっておりません)がおりまして、茨城県北部(日立市より上)は立原の人口が少なく、私の家から遠いので未調査です。

そして橘紋。
立原家橘紋に共通していることは『菊座橘』『久世橘』『三つ足橘』が本来であると考えてました。
ここからは妄想なのですが、旧家の古い墓石を拝見致しましたところ、家紋辞書に無い橘紋が多数ありました。
それが江戸期に他家と区別するため変えたのか、室町期に分家して主君を変えた時にデザインしたのかわかりません。
確実に言えるのは時が経つにつれて家紋デザインが変化したということは無いと思います。完全に意図的に変えてます。
そのオリジナル家紋が子孫によって家紋辞書に載ってるデザイン通りに変えられていっております。
立原城及び立原村を最初に出て行った一族(私が知る限りですが)はその地域の草分けだとネットで見ました。750年以上前からの土着で落武者だそうです。
源平なのか南北朝なのか、その中間の頃なのかわかりませんが、私が調べた限りでは最初の分家+遠方へ土着です。
しかも古い墓石の家紋は完全オリジナル橘紋。江戸時代まではそのデザインだったのかもしれません。

もしかしたら立原氏はそもそも全て橘紋だったじゃないかと思いました。三つ盛亀甲一族や藤一族はプライドや地位によって定紋を変え、負け組立原家はそのまま『立原紋』らしきものを使い続け、時が経つにつれデザインを普通のものに変えていったのでしょうか?


当家の伝承紋『根無橘』は江戸中期分家した当初は同じ村や近隣の村に『根有橘』の立原一族はいませんでした。ということは戦国期、もしかしたら鎌倉期に根有と根無で分家して今日まで伝わってきたのでしょうか。
ちなみに当家の家紋も伝わっているデザインは『丸に橘』ですが、江戸期の本家の墓石を拝見しますと、オリジナル橘紋でした?

次回は立原家『菊座橘』を書こうかと思います。


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