茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
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P R
とても優しく素敵なご夫婦でして、私の研究に賛同してくださいました。
そして、郷土史家や研究家がたまげるような(立原氏の研究家はいないか?!)資料を拝見致しました。
一つ目は家紋。見たことのない橘紋でして、江戸時代の陣傘に描いてあります。
私は以前下大野町の墓石調査で、この地区の立原氏は「丸に菊座橘」で、茨城人名録に記されてるように、室町中期には帰農している一族なのかと思っておりました。
しかし、まず家紋が完全オリジナル橘でして、よくあるパターンですが明治以降分家が増え、その分家達が昭和平成になり無難なデザインの橘紋に変えるのは沢山見ました。
私はそこで勘違いをしてました。先祖達が家紋を間違ったデザインで継いでいたのではなく、先祖達が自分の家ごとにmyオリジナル家紋を定めていたと思われます。
実は常陸大宮野上の古い墓石も、常陸太田市岩手の古い墓石も、小美玉市柴高の古い墓石も、デザインが王道的な橘紋ではなく、かなりオリジナリティーを感じられます。
何も知らない私は「ご先祖様方は間違っちゃたんだね」と思っておりました。
どうやら違うんです。そのデザインはご先祖様が家の区別と誇りを家紋デザインに…!!
気付いてくれ全国の立原さん!
続いて二つ目、系図です。
たまげました、手が震えました。
なんと、メジャーな家祖、「立原五郎平久幹」を出発点としない系図を拝見致しました。
久幹と同じく鹿島成幹の息子で立原館に住み、領地まで細かく書いてあり、その系図は戦国末期まで続きます。
ふと、私は思いました。久幹一人で城や領地を管理できるわけない、仲間や家族がいて当然。そもそも立原氏は鹿島成幹の側室(妾?)の子、城主は久幹であるがその他側室等の子等に立原村に住まわせても何も不思議はない。
そしてその系図を見て感じたのが、室町時代の人々は一族のなかでも、あっちいったりこっちいったり、帰農してみたり、敵対する武将の家臣になったり、遠い土地の家臣になってみたり自由です。
てっきり私は土着した農民は農民のままかと思いきや、また仕えた大名の家系は代々その大名に仕えるかと思いきや…違うみたいです。
そして、郷土史家や研究家がたまげるような(立原氏の研究家はいないか?!)資料を拝見致しました。
一つ目は家紋。見たことのない橘紋でして、江戸時代の陣傘に描いてあります。
私は以前下大野町の墓石調査で、この地区の立原氏は「丸に菊座橘」で、茨城人名録に記されてるように、室町中期には帰農している一族なのかと思っておりました。
しかし、まず家紋が完全オリジナル橘でして、よくあるパターンですが明治以降分家が増え、その分家達が昭和平成になり無難なデザインの橘紋に変えるのは沢山見ました。
私はそこで勘違いをしてました。先祖達が家紋を間違ったデザインで継いでいたのではなく、先祖達が自分の家ごとにmyオリジナル家紋を定めていたと思われます。
実は常陸大宮野上の古い墓石も、常陸太田市岩手の古い墓石も、小美玉市柴高の古い墓石も、デザインが王道的な橘紋ではなく、かなりオリジナリティーを感じられます。
何も知らない私は「ご先祖様方は間違っちゃたんだね」と思っておりました。
どうやら違うんです。そのデザインはご先祖様が家の区別と誇りを家紋デザインに…!!
気付いてくれ全国の立原さん!
続いて二つ目、系図です。
たまげました、手が震えました。
なんと、メジャーな家祖、「立原五郎平久幹」を出発点としない系図を拝見致しました。
久幹と同じく鹿島成幹の息子で立原館に住み、領地まで細かく書いてあり、その系図は戦国末期まで続きます。
ふと、私は思いました。久幹一人で城や領地を管理できるわけない、仲間や家族がいて当然。そもそも立原氏は鹿島成幹の側室(妾?)の子、城主は久幹であるがその他側室等の子等に立原村に住まわせても何も不思議はない。
そしてその系図を見て感じたのが、室町時代の人々は一族のなかでも、あっちいったりこっちいったり、帰農してみたり、敵対する武将の家臣になったり、遠い土地の家臣になってみたり自由です。
てっきり私は土着した農民は農民のままかと思いきや、また仕えた大名の家系は代々その大名に仕えるかと思いきや…違うみたいです。
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