忍者ブログ
 
茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
2025.06│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
日本史に詳しい方でしたら知っていると思いますが、どうやら鎌倉時代や室町時代は長男相続ではなく、能力や実力により次男以下も相続できるようです。
加えて思いますのが嫡流=土地の相続、が絶対ではないと素人知識でありますがそう思います。

立原城にも色々あったようで、家を興した創成期から室町中期にかけて立原各家の系図を照らし会わしますと、矛盾や謎が見られます。

『立原』と言えばどの文献にも家祖は『五郎、久幹』とあります。ちなみに烟田文書には『文幹、五郎』とありましたが『久』と『文』の書き間違えか読み間違えではないでしょうか。烟田氏は常陸平氏で、茨城県ではちょっと有名な武将です。


私が謎に思うのがもう一人の家祖『立原雅楽亮平顕幹』の事です。
こちらを祖とする家は沢山ありますし、子孫が戦国時代や江戸時代に最も栄えた立原一族と言っても過言ではありません。
しかしどの文献にも『顕幹』の名は見られません。
しかし顕幹を久幹と同一人物と過程しますと一つだけスッキリすることがあります。両人の息子達の名前です。

立原太郎(顕幹の子)
立原五郎次郎(久幹の子)※嫡流(大掾系図ですと)
春秋三郎(久幹の子)
立原五郎四郎(久幹の子)

同じ村や城で同じ名字で『太郎』は一人しか名乗れないはずです。
立原家祖として通説の久幹ですが子に太郎がいないのは不思議です。しかも所領を継いだのは『五郎次郎、盛幹』です。
と考えると顕幹と久幹は同一人物であり、何かの書き誤りや読み間違え、伝え間違えなのかと思いました。
もしくは同一人物だとしても『太郎家』と『次郎家』に分かれ、系図によりますと『太郎家』の末裔に『立原玄番』が居り、同じ武士か分かりませんが大掾旧臣録にはひたちなか市のある土地を知行しているようです。その系図の玄番は旧臣録の玄番と同じ時代なので同一人物かと思いたいです。
同じ頃『五郎次郎家』の子孫は小幡を知行しています。と言いたいところですがこの情報はあくまで系図と大掾氏や江戸氏の旧臣録を参考にしただけで確かでありません。

後日、この顕幹久幹について明治初期に交わされた秋田県士族立原政蔵氏と立原村村長立原平四郎氏の手紙を元に書かせていただきたいと思います。

ちなみに『五郎次郎』とか『次郎三郎』というのは五郎の次男とか、次郎の三男という意味らしいです。立原家の系図を見る限りはこういう名前は鎌倉初期に流行ったのかな?と思います。その後は官職の名前が多いみたいです。

そう言えば『太郎』には名前の前にも後ろにも順番的な名前がくっついているのは見たことありません。やはり太郎は特別なのでしょうか。
PR
前回からの続きです。
茨城町小幡には二回ほどお伺いしましたが、この度はネットでお店を商っている立原様がいらっしゃるとのことを知り、フラりと立ち寄らせていただきました。

買い物をしながらサラリとお店の方に『小幡の立原家の嫡家はどちらでしょうか?』と普通じゃあり得ない失礼な質問をしますと、大変ご親切にご教示くださいました。
プライバシーに関わることなので詳しく記すことはできませんが、小幡立原の素晴らしい由緒をお聞きすることができました。
とても親切にしていただきまして、心より感謝いたします。

お墓にもご参拝させていただき(今回で三回目)、あらためて気付いた事、以前は見過ごして分からなかったことも分かってきました。
とにかく墓石に刻まれた名には本姓の『平』や常陸大掾一門の証である諱の『幹』が各墓石に刻まれており、やはり立原五郎平久幹の嫡流はここなんだろうなぁ、と、思いました。

後日書こうかと思いますが、嫡流、本家、総本家等同じようでちょっと違う感じを書きたいと思います。
あわせて家祖『立原五郎平久幹』と家祖『立原雅楽亮平顕幹』のダブル家祖について気付いた事があるので書かせていただきます。

常陸大掾伝記を読んでいましたら、気になる文章に目が止まりました。
漢文はほとんど読めないので、ヤフー知恵袋にて質問させていただきました。

後日、安藤氏家臣、村上氏の系図を探してみたいと思います。
明治時代以前では非公開系図だったと思いますので、詳細を省き、家祖名のみを記しました。嫡流家のみ、インターネット公開されておりますので記しました。
私は立原家を調べまくっているゆえに思うのですが、本末の争いは総本家嫡流家が誰とかではなく明治江戸時代の村単位で行われているように感じます。
やはり土地やそれに準ずる身分に関わることでしょうか。
とある立原様の墓地にお伺いいたしました。
いつもはこっそりご参拝するのですが、その家の方の了承済なので堂々とご参拝させていただきました。
以前下郷にお伺いしたときにはこちらの墓地には気付かずにスルーしてしまいました。

あれれ?丸に菊座橘でありました。
下郷立原家はその他の立原家の紋所から察するに『丸に久世橘』が本来かと思っておりましたが、今回の旧家の古いお墓には菊座があしらっておりました。

さて、江戸期にデザインチェンジしたのか、そもそもルーツが異なるのか、それとも近代になり、あらためたのか、まだまだわからないことだらけです。
とにかく下郷立原家に関して推測できることは、恐らくは小田氏、及びその分家武将の支配地であるため、その家臣もしくは領民だったのでしょう。

下郷の調査を終え、私は茨城町小幡に向かうことにしました。

続く

『寺紋』という本がありまして、何年か前に購入いたしました。
改めて読み返すと数年前には気付かなかった事に気付くものですね。

私の考えで恐縮でありますが、そこそこの武家や平民より寺や神社の方が家紋のデザインや呼び名を長い間守っていると思います。

こちらの『寺紋』に記載されております情報から考えますと…
『菊座橘』は『橘』に『菊』と『台(もしくは根)』が加えられたのがデザインのスタートかと思います。三井寺など記載されておりましたが、町中の日蓮宗のお寺の橘紋も『根』がセットだったりします。
頂法寺(六角堂、池坊)は『根なし橘(立花だったっけ?)』と、云うそうです、菊座橘を。ということはそもそも根が有り、それを除いたため根なしなのでしょう。

私的に菊座橘の謎は少し明かされた気になりました。しかし立原家の面倒くさいところは菊座だけでなく『久世橘』がとても多いところです。『根(足)』があったり、皺が少なかったり、丸が無かったりと色々なパターンがあります。
それが本来は菊座であって、そこから久世をあしらったのか、そもそも菊座と久世で派閥が違うのか、ただたんに江戸期、明治期に家の区別のためにデザインを変えたのか。まだまだわかりません。

しかも茨城県立原家の嫡流家と思われます三家がございますが、三家共に『橘』紋ではありません。二家はルーツは違いますが水戸徳川家からの拝領の紋。
一家は千年近く立原村に居たと思われます鹿島氏旧臣の方々。紋は『藤』です。

以前、常陸大宮市の郷土史家の方から拝受いたしました昭和の新聞の切れはしに立原家の記事がありまして、とても勉強になる記事で何度も読み返しました。
しかし先日気付きましたのは『立原』の次の項目の『立花』に私が求めていた答えの一つが記載されておりました。

ざっくり説明いたしますと、『橘』という地名や名字は勅命により(たぶん鎌倉時代かな?)名を変え、名字は『椿』、地名は『立花』に変わったそうです。
ということは要するに偉い方々が高貴な『橘』の名を下々が使うな、と命令したということですよね。橘の名字を立花にした人もいたのではないでしょうか。

私の家の墓地の裏には天狗党の立花氏の墓があり、『立花』と彫られておりますが、墓誌等には『橘』と彫られており謎でした。
すなわち名字は『立花』、本姓は『橘』なのでしょう。
また、茨城県の立花姓の墓を何件か見てましたが、家紋は『丸に橘』でした。何でだろう?と思ってましたが、ようするに本流の橘氏の家紋である『橘』に分家のお約束の『丸』を付け『丸に橘』になったのかもと推測できます。

『立花』と言いますとあの有名な戦国武将を思い出しますが、あの方の本姓は藤原氏だった気がします。家紋も違うはずです。

そういえば池坊の家紋もたしか『立花』と云い、『丸に菊座橘』でした。
伊井家と仲良しの日蓮宗の寺紋は『井』の中に『橘』ですが橘のデザインは『根』があったり『久世橘』だったり寺によって色々なのかと思いました。
立原家もしかり、『立花』と記す家もあり、古い墓石はほとんどがノーマル橘紋ではありません。
常陸戦国武将の真壁氏もよくよく調べてみると丸の無い『久世橘』だったりします。

やはり当時の人達は勅命を守り、高貴な『橘』をそのまま名字や家紋や村名に使うのはやめたのでしょうか。
きっと橘氏の嫡流家は丸の無い『橘』紋なのでしょうね。橘寺も橘紋ですし。 
水戸市飯島町をグーグルマップにて探検しておりますと、以前お伺いした立原家墓地とは違うところに墓地を発見しました。
後日ご参拝いたしまして気付いた事は、同じ橘紋でもあちらは根有が多く、こちらはほぼ根の無い『丸に菊座橘』でありました。
距離も少しありますし、恐らくは飯島村の立原家にもルーツの違う家が二つ以上有ったのだろうと推察できます。

こういうパターンは他の地域にも見られまして、下大野、東石川、大宮、鯉淵、等がそのパターンだと思います。

戦国末期、佐竹氏の秋田引越しについていかぬ者やついていけぬ者が何かの縁があってその村に土着したのでしょう。でなければお隣がルーツの違う同姓何て事はありえませんよね。

真壁氏とは常陸国の勝ち組の豪族であり、常陸平氏のスーパーエリートでして、室町中期~後期には佐竹氏に従います、たしか。
その真壁氏を同じ常陸平氏の立原氏が知らないわけありません。しかも真壁氏は常陸平氏の本流中の本流の多気氏から分家したのに対し、立原氏は本流から分家した家の分家の分家のようです。しかも家祖の立原久幹の母親は鹿島成幹の側室か妾でして、庶家であります。

家格が段違いの真壁氏の紋所は『久世橘』のようです。しかも丸無しということはかなり古くから使われているのでしょう。

立原家も久世橘は丸付きで多く使われてます。江戸氏旧臣と思われます立原家は『根無し橘』とも云います。(那珂郡野上、東石川、茨城郡飯富、飯島等)。
大掾氏旧臣(地域的に恐らく家臣、もしくは領民)の立原家も丸に久世橘をあしらっている家が多くあります。

しかし佐竹氏旧臣の家紋には丸が有れ無かれ久世橘は見られません(あったら教えてください)。久世橘の実の皺を2本除いたデザインでしたら、秋田の佐竹旧臣立原家、東石川の立原家(地域的に江戸氏家臣?→後に佐竹氏家臣)があります。

もしかしたら真壁氏に配慮したのでしょうか?
真壁氏より立原氏の方が早くに佐竹家臣となっておりますが、圧倒的に武力、領地、家格が上の真壁氏が軍門に下った時点で、立原は同じ久世橘にアレンジをしたのかもしれません。

後に江戸時代になると同じ村の中の同族でも家を区別するためか、オリジナル橘紋が多く見受けられます。水戸徳川家に召し抱えられ、士分や郷士になると亀甲紋を拝領され、旧家中の旧家や武士一筋の立原家の紋所は本来なんだったのか分からなくなってしまいました。
まず佐竹氏家臣『立原雅禾介』は『立原雅楽介』ですね。
情報元も『禾』だったので崩し字を見誤ったのでしょう。
立原雅楽介は戦国時代の立原家の中ではダントツのエリート侍だったのかと思われます。
時代によっては雅楽介の名前を世襲してたり、親戚が使っていたりするのでいっぱいいます。

二つ目に江戸氏旧臣録の『立原大学』は小幡村を領してると記されておりますが、本当は大部村です。情報元でも大部村とありますので、ただたんにミスったのでしょう。大部村は今の水戸市飯富になります。
小幡村を領してたのは『立原内記』です。
古文書を見ますとよく出てくる名前です。
同一人物かと調べてみますと、違う様です。
一人は一番知られております立原民部でして、江戸氏の陪臣で神生氏の家臣であり、水戸藩士の立原翠軒の遠い親戚にあたるようです。
(顕幹流分家子孫)

二人目は室町中期の佐竹家臣。子孫は茨城県にも居るとみられ、嫡流は秋田県士族となりました。
(久幹流子孫)

三人目は応永の頃の武士だそうで、詳しくはわかりません。その情報をお持ちの立原氏は江戸氏の旧臣かと思われるのでその『民部』も江戸氏家臣でしょうか。
(顕幹流分家子孫)

※顕幹はおそらくは久幹の孫の可能性有り。立原顕幹系図ですと顕幹は鹿島成幹の『三男』とありますが鹿島成幹の三男は別人なので、立原久幹の息子、立原盛幹の書き誤りかとの指摘が明治期にありました。
デリケートな問題なのでそっとしておきます。

『丸に三つ足橘』でした。立原家っぽく言えば『根有立花』なのかもしれません。
しかしたった一軒のデータなので、その他の紋を見ないとなんとも言えません。でも近い住所なので恐らくは同じ一族なのかと思われます。
==立原氏の家紋==
☆橘紋☆
※根有=根の有る橘紋の図柄
丸に菊座根橘、丸に三つ足橘、その他色々。
※根無=根の無い橘紋の図柄(普通の橘はこれ)
丸に橘、丸に菊座橘、丸に久世橘、その他色々。
●ひたちなか市東石川=根無
旧家は二軒。「根無しの橘」と呼ぶ家も有ります。
江戸氏、佐竹氏に仕え後に帰農。
●秋田県士族立原家=根無
佐竹家旧臣。立原家の中では最初に佐竹家に仕えたとされております。
紋は「立花」と云います。丸の無い橘紋は私が知る限りこちらの家のみ。橘紋をあしらう立原家ではおそらく最も古いと思われます。
●ひたちなか市津田=根無
●常陸太田市岡田町=根無
佐竹氏家臣。後に百姓、村役人等。
●常陸太田市亀作町=根無
岡田町立原家と同族かと思われます。
●常陸大宮市岩手町=根有
700年以上前から土着とのことなので、立原城を離れ、村を開拓した立原家では最も古い。
幟(今で云う鯉のぼり)を上げない風習のことから落武者の可能性有り。
●水戸市鯉淵=根無
●水戸市高田=根有(根が二本)
●水戸市飯島=根有、根無
「根無し橘」「根有橘」と云います。
最も多くの立原姓が居る地域です。
●水戸市飯富=根無 
●茨城町長岡=根有
●小美玉市柴高=根有、根無
●笠間市下郷=根無
●常陸大宮市野上=根無
佐竹氏に仕え、秋田転封時に帰農。
紋は「丸立花」と云います。「根無しの橘」とも云うそうです。
●水戸市下大野=根無
旧家が数件居りまして、大本はルーツの違う二軒かと思われます。
顕幹流立原家(オリジナル橘紋)と右京介流立原家(丸に菊座橘紋)が居ります。どちらも江戸氏に仕え、後に帰農。名主、郷士格、村役人等を勤めます。
☆亀甲紋☆
※図柄は丸に三盛亀甲に花菱(花角?)もしくは花、平、東
※水戸徳川家の拝領の紋。江戸時代の水戸藩、士分の一族、郷士の一族等。
●立原翠軒の末裔、その本家筋一族
顕幹流分家、江戸氏に仕え後に町人や水戸藩士に。
図柄は平、東。
水戸市在住。
●顕幹流嫡家立原氏
佐竹氏に仕え後に庄屋、山横目、郷士等を勤めます。
図柄は花菱。
水戸市在住。
●出雲からの立原家
尼子氏家臣、後に水戸藩士。本姓は源氏(茨城の立原氏はほとんど平氏)。
水戸市在住。
●日立市諏訪町
図柄は平、東。
●常陸大宮市
顕幹流。佐竹氏に仕え後に村役人等。
図柄は花菱。
●茨城町小幡
久幹流嫡家の可能性有。立原城を出た後、江戸氏に仕え、後に水戸藩郷士になる。私が知る限りでは大掾系図の立原氏の末裔はこちらの家のみ。
図柄は花菱。
●水戸市栗崎
顕幹流分家、江戸氏に仕え、栗崎地域の領主一族。
図柄は花菱。
☆藤紋☆
※丸に下がり藤、丸に上がり藤等
●鹿嶋市立原地区
丸に下がり藤、丸に上がり藤
代々鹿島氏家臣。禅秀の乱(1416)において郷土史に『立原地区の所領は没収』とあるのはその頃の立原城主は大掾氏と同じく上杉禅秀についた立原詮幹であり、藤紋立原家は立原城(館や村)に残ったと思われます。
所領没収となった詮幹の子孫は小幡村に土着して江戸氏の家臣になったと思われます。
禅秀の乱以前の立原地区の大本の支配者は行方氏、以後は烟田氏かと思われます。
天正期に佐竹氏に支配される前は烟田氏なのか島崎氏なのか鹿島氏なのか、研究不足のためまだ分かりません。
●鹿嶋市棚木
丸に下がり藤
●水戸市鯉淵町
丸に上がり藤
☆丸に剣方喰☆
●潮来市に多数
戦国時代の地理で考えると島崎氏の家臣かもしれません。
☆丸に桜☆
●潮来市に数件
同じく島崎氏の家臣だったのでしょうか。
☆二つ巴☆
●行方市麻生に多数
地理的に考えると麻生氏の家臣だったのかもしれませんが、もしくは後の支配者島崎氏の家臣というのも考えられます。
●常陸大宮市辰ノ口
☆丸に茗荷☆
☆丸に梅☆
●共に神栖市に多数
立原地区にも鹿島氏宗家にも距離的に近く、鹿島氏の領地であることから鹿島氏の旧臣立原家の分家かもしれません。
☆丸に鷹の羽☆
●埼玉県吉川市
旧家有り。まだ全てが謎です。後日お伺いしたいと思います。
鹿嶋市史によると
「立原氏の所領没収は『禅秀の乱(1416年頃)』の後で、烟田氏の物になったのに、立原村立原文書によると天正期となっている。なんで?」
とあります。

私が参考にしたのは「大掾系図」に記載されている城主立原氏の末裔、小幡村立原家の文書(東京大学図書館に有り、それと現当主様保有の文書)と、
「立原村艦系譜全(東京大学図書館)」です。
すなわち立原村に平安後期よりずっと居る立原家の文書。
それと名字辞典(古い本)。

そもそも立原村や立原という地は鎌倉時代に行方氏(立原氏の親戚《大先輩》)が領していたり、「禅秀の乱」以降は烟田氏(立原氏の親戚《兄貴分》)が領してたりと、立原宗家が領地としていたのは立原城(館)とその周辺なのかと推測しました。
立原宗家は常陸平氏の本宗家大掾氏と共に上杉禅秀方に付きました。
後に立原城に住み着いた立原家は代々鹿島氏(鹿島氏は公方)の家臣のようです。

運命は分かれ、立原宗家は城を追い出され後に江戸氏の家臣となりました。
鹿島氏家臣立原家が立原館を引き継いだけど、立原地区の領地は烟田氏に配分されたのでしょうか。
その後も立原村立原家は天正後期まで鹿島氏に仕えます。

一つ謎なのが立原村文書(系図)と鹿島宗家が茨城県歴史館に寄贈した文書(立原系図)の名前が全くあいません

もしかしたら村住まいの立原家は農業を営み、分家等を鹿島氏に仕えさせたのかと思いました。
しかしそれなら立原村本家の系図に「この頃に分家した奴等が鹿島に行って侍をしてるよ」っていう事が記されているはずなのですが、残念ながら記されておりませんでした。
とにかく後日お手紙をお出ししてお伺いしたいと思います。

先祖の建前とは違う情報が現代の当主や分家の方々から教えていただけるものです。

超貴重な文書を拝見いたしました。

私のように全国各地の立原家に手紙を出し、由緒や系図を教えてもらっている方が明治初期にもいたようです。

秋田の士族で、家紋は丸の無い『立花』。だいたい丸があるのは分家やお洒落かと思われますので、立花(橘)紋の立原家の宗家かと思います。

茨城の旧家エリート立原家の立原村、大宮町、野上村、小幡村、水戸や東京住まいの士族立原家とやりとりをしていたようです。

何せ私はくずし字が読めないので、少しだけくずしてる今回の優しい文書もほぼ読めません。しかしマニアックな立原家ワードから察するにこの方が調査をしていて、当時の立原村の村長に手紙を送った内容かと拝察いたしました。
おそらく『菊座根橘』かと推測しております。

もしくは『丸に菊座橘』、根が無い普通の菊座橘紋です。

しかしわざわざ『根無橘』と言うんですから本家には『根』があったのでしょう。

断言しますのも理由がありまして、大掾氏や江戸氏、後に佐竹氏が納めた領地の立原氏旧家の江戸時代中期から後期の墓石には『菊座根橘』があしらわれているからです。(江戸初期以前は農民、中下級武家に墓石はありませんでした。)

その墓石の後の墓石には『三つ足橘』になったり『久世橘』になったり『菊座橘』になったりしております。
その家からの分家かと思われる墓石には、ただの『丸に橘』になってしまってる家もあります。

佐竹家臣の立原家紋所の表記は『立花』です。菊=花?

江戸時代になって、同じ村で同族が増え、家紋を少し変える事はよくあるそうで、昭和になり、更に家紋はありふれたデザインに変わって行ったというところでしょうか。

世間でよく言われる『農民に名字は無い』とかは誤りです。
立原家に限ったことではありますが、農民は先祖の由緒は忘れてしまう家もありますが、名字と家紋は歴然と伝えております。
菊座橘をあしらう立原家は佐竹氏、江戸氏、大掾氏の支配した地域に見受けられます。
とある立原家系図には南北朝期に立原城を出て大掾氏家臣になり、何代かして江戸氏家臣になり、途中佐竹氏の家臣になった分家もあり、天正期に落武者になり、後に村役人になり、現代に至る。
この超素晴らしい系図から推測するに、菊座橘紋立原家はこの家系図の範囲にピッタリおさまります。(途中沢山の分家もあったことでしょう)
すなわちやはり古い立原家の本来の家紋は橘かと思います。しかも菊座橘や久世橘に似た、型に修まらない様な橘紋が多数見受けられます。
立原城最後の城主、立原詮幹も橘紋だったのでしょう、多分。しかし私が知る限り詮幹の子孫は一家しか確認できませんでした。しかも家紋は三盛亀甲。三盛亀甲は水戸徳川家からの賜り紋かもしれません。まだ裏付けはしておりませんが。

ちなみに憶測ですが藤紋は鹿島氏からの賜り紋ではないかと妄想しております。
五、六年かけて仕事の合間に、家族に内緒で茨城県各地の立原家墓地を参拝及び研究してまいりました。

圧倒的に橘紋が多いです。
江戸期のエリート農家や戦国時代のエリート侍の家紋は『三盛亀甲』系の家紋。

立原城や立原村にとどまった一族は『藤』。水戸市におそらく江戸氏旧臣の一族も藤でした。(←まだコンタクトをとっておりません)

鹿島より南部には梅や茗荷などの一族(まだコンタクトとっておりません)がおりまして、茨城県北部(日立市より上)は立原の人口が少なく、私の家から遠いので未調査です。

そして橘紋。
立原家橘紋に共通していることは『菊座橘』『久世橘』『三つ足橘』が本来であると考えてました。
ここからは妄想なのですが、旧家の古い墓石を拝見致しましたところ、家紋辞書に無い橘紋が多数ありました。
それが江戸期に他家と区別するため変えたのか、室町期に分家して主君を変えた時にデザインしたのかわかりません。
確実に言えるのは時が経つにつれて家紋デザインが変化したということは無いと思います。完全に意図的に変えてます。
そのオリジナル家紋が子孫によって家紋辞書に載ってるデザイン通りに変えられていっております。
立原城及び立原村を最初に出て行った一族(私が知る限りですが)はその地域の草分けだとネットで見ました。750年以上前からの土着で落武者だそうです。
源平なのか南北朝なのか、その中間の頃なのかわかりませんが、私が調べた限りでは最初の分家+遠方へ土着です。
しかも古い墓石の家紋は完全オリジナル橘紋。江戸時代まではそのデザインだったのかもしれません。

もしかしたら立原氏はそもそも全て橘紋だったじゃないかと思いました。三つ盛亀甲一族や藤一族はプライドや地位によって定紋を変え、負け組立原家はそのまま『立原紋』らしきものを使い続け、時が経つにつれデザインを普通のものに変えていったのでしょうか?


当家の伝承紋『根無橘』は江戸中期分家した当初は同じ村や近隣の村に『根有橘』の立原一族はいませんでした。ということは戦国期、もしかしたら鎌倉期に根有と根無で分家して今日まで伝わってきたのでしょうか。
ちなみに当家の家紋も伝わっているデザインは『丸に橘』ですが、江戸期の本家の墓石を拝見しますと、オリジナル橘紋でした?

次回は立原家『菊座橘』を書こうかと思います。


鎌倉時代、室町前期でいえば家紋別であったんじゃないかと思います。
平安時代後期に立原村及び立原城、立原館等と呼ばれる所へ平久幹やその兄弟、家来が移り住みます。元からそこにいる人達ももちろん居たでしょう。
250年位住んでいたっぽいです。
橘紋立原家はその間の分家だと思います。まだまだ研究不足ですが橘紋立原家の確認できる由緒書きには禅秀の乱(立原城等の領地没収となった戦)以前に皆佐竹氏や大掾氏に仕えてるみたいです。
逆に三盛亀甲立原家は禅秀の乱まで立原城&村に居て、後に江戸氏や佐竹氏に仕えてます。
この三盛亀甲立原家はよく知られているのが郷士が二家、立原翠軒等で知られている一家、すなわちエリート立原家。
しかし総本家は藤紋でありまして、まだ確認はとれてないのですが恐らく、領地没収→烟田氏&江戸氏に仕える、もしくは総本家立原にとっての総本家、鹿島氏やそれまた総本家大掾氏に仕えたりしたのでしょうか?
何はともあれ天正期の佐竹氏による大掾一門皆殺しにより下野したそうです。

歴代城主の系図の最後の城主『詮幹』の子の名前が記されているのは私が確認できる限りでは水戸藩郷士(小幡)だけです。
もしかしたら総本家立原家にも痺れるような系図があるのかもしれません。

もしくは部垂立原家のように『平久幹』を祖としない系図があったりするのでしょうか?
わくわくが止まりませんね!
仮説で恐縮ですが、自家の紋を『立花』と称した文献と由緒書きを見た事があります。
昔の人達は読みが同じなら漢字は適当に当ててる…なんてパターンもありますがどうやらこの件に関しましてはそうじゃない気がします。


そもそも『根なし』とは『根のある家紋』の対比ではないかと家紋研究家の方からご教示頂きました。それから調べていくうちに立原家に根のある橘紋が沢山あることに気付きました。
憶測ですが、一般的な呼び名の『三つ足橘』(立原家的に言えば根有橘)のデザインは菊座橘に似ていて、橘の実というか『花』に見せてる気がします。故に水戸市飯島町の『根なし橘』は菊座橘によく似た『久世橘』です。
常陸大宮市野上の『根なし橘』と伺いました家の紋は『丸に橘』でしたが、その方の先祖親戚の墓石には菊座と久世を混ぜたようなオリジナル家紋が見受けられました。

ひたちなか市外野の立原家は本家筋が二家ありまして、一家は菊座橘、もう一家は『根なしの橘』、私の10代前の本家でして久世橘とも丸に橘ともいえないオリジナルでした。

まだまだ結論は出せませんが仮説として、橘紋立原家は佐竹氏家臣は根有、根なし一族で、菊座は大掾氏、江戸氏家臣なのかと今のところ思います。…たぶん違いますが


橘紋立原氏で小美玉市にお住まいの方々にはまだお伺いしておりません。墓地に参拝、家紋を拝見いたしましたところ『久世橘』『菊座橘』『三つ足橘』『三つ足橘菊座バージョン』等、水戸市飯島町と同じく種類豊富かつ、旧家揃いです。

元郷士の家柄の立原様(三盛亀甲の紋、旧家中の旧家、名家中の名家)の保有する資料に立花紋立原家の資料があり、小美玉市近辺の領地を佐竹氏より賜ったとの記載がありました。
これはとても期待できますね。


仮説まとめ


オーソドックスな『丸に橘』という紋は昔の立原家にはなかった?!
鎌倉期の立原家が立原城を出て行くとき(もしくは出て行った一族)は根有橘と根なし橘を定紋としていた?!

こんなところでしょうか?
先日お伺いしました立原家のお隣様の立原家の方より返信のお手紙を拝受いたしました。

またもや私は震えてしまいました。なんと南北朝の頃からの系図でありました。
私はまた自分の憶測と思い込みによる判断を反省いたしました。
まず一つ、橘紋=佐竹家臣ではない。
下大野町の旧家様は大掾氏に仕え、江戸氏に仕え、分家は佐竹氏に仕えたり、後に本家は水戸徳川家に仕えたりと様々でした。

ということで、同じ『村』の下大野町ですが、同じ『立原』でしても由緒も家紋も系図も違います。昔の人達、ご先祖様達は自分のルーツをとても大切にしております。
家紋もオリジナリティなデザインをあしらい、明治初期までは継がれていたのかと思いました。

私の先祖の実家、ひたちなか市東石川の立原氏も本家格は家紋が若干違います。私の家系は『久世橘(根なしの橘)』で佐竹氏家臣ですが、お隣は『菊座橘』。旧土地台帳を閲覧したところ、私の本家よりお隣の菊座橘紋立原氏の土地の方がダントツ広いです。
調べた当時は「きっとこの家から分家したから農地はこんなもんなんだろな」と、思いましたが、新しい仮説でありますが、
大掾氏家臣、江戸氏家臣の立原氏で佐竹氏に滅ばされ帰農。後に佐竹氏国替の時に佐竹氏家臣立原氏が同族を頼って帰農…?


ちなみに常陸大宮市野上の立原様方も『菊座橘』『久世橘』が本家格でしたが、もしかしたら私のストーリーが当てはまるかもしれませんね!


いやしかし、仮説でありますが、各々の家紋が明治に入り辞書の通りの家紋に変えてしまったような気もします。先祖代々継がれてきたオリジナル家紋も当時の当主が「あれ、先祖がデザイン間違えてるぞ!」と思えば、その時点で王道的な橘紋になるのかなと思いました。
とても優しく素敵なご夫婦でして、私の研究に賛同してくださいました。
そして、郷土史家や研究家がたまげるような(立原氏の研究家はいないか?!)資料を拝見致しました。
一つ目は家紋。見たことのない橘紋でして、江戸時代の陣傘に描いてあります。
私は以前下大野町の墓石調査で、この地区の立原氏は「丸に菊座橘」で、茨城人名録に記されてるように、室町中期には帰農している一族なのかと思っておりました。
しかし、まず家紋が完全オリジナル橘でして、よくあるパターンですが明治以降分家が増え、その分家達が昭和平成になり無難なデザインの橘紋に変えるのは沢山見ました。
私はそこで勘違いをしてました。先祖達が家紋を間違ったデザインで継いでいたのではなく、先祖達が自分の家ごとにmyオリジナル家紋を定めていたと思われます。

実は常陸大宮野上の古い墓石も、常陸太田市岩手の古い墓石も、小美玉市柴高の古い墓石も、デザインが王道的な橘紋ではなく、かなりオリジナリティーを感じられます。
何も知らない私は「ご先祖様方は間違っちゃたんだね」と思っておりました。
どうやら違うんです。そのデザインはご先祖様が家の区別と誇りを家紋デザインに…!!
気付いてくれ全国の立原さん!


続いて二つ目、系図です。
たまげました、手が震えました。
なんと、メジャーな家祖、「立原五郎平久幹」を出発点としない系図を拝見致しました。

久幹と同じく鹿島成幹の息子で立原館に住み、領地まで細かく書いてあり、その系図は戦国末期まで続きます。
ふと、私は思いました。久幹一人で城や領地を管理できるわけない、仲間や家族がいて当然。そもそも立原氏は鹿島成幹の側室(妾?)の子、城主は久幹であるがその他側室等の子等に立原村に住まわせても何も不思議はない。

そしてその系図を見て感じたのが、室町時代の人々は一族のなかでも、あっちいったりこっちいったり、帰農してみたり、敵対する武将の家臣になったり、遠い土地の家臣になってみたり自由です。
てっきり私は土着した農民は農民のままかと思いきや、また仕えた大名の家系は代々その大名に仕えるかと思いきや…違うみたいです。
憶測で恐縮ですが、『根なし橘』は室町時代からの呼び名で、『根なしの橘』は江戸時代に『根なし橘』一族から分家して、デザインも本家に計らい、久世橘→橘にしたのかと妄想しました。たかが『の』ですが、今のところ『の』が付くと丸に橘になります。

もう1つ妄想ですが、『根なし橘』『根有り橘』の呼び名は佐竹家臣&その後帰農したグループのみの呼び名かと。

家臣団のメインは佐竹氏ですが、江戸氏に仕えた『三盛亀甲』紋立原氏、大掾氏に仕えた一族、鹿島氏に仕えた一族、等々色々いるはずです。

旧家の『三つ足橘』立原氏は『根有り橘』とは呼びませんでした。750~800年前に土着した常陸太田市の旧家です。
なんと、秋田県の立原氏は立花氏から立原氏に改名した一族との情報を頂きました。
もちろん、生粋の立原氏もいらっしゃるのも間違いないのですが、江戸時代は苗字をまれに変えてしまうことがあるので、こちらの一族の方々は本性立花氏で間違いないでしょう。
改名の理由としては、立花一族に不幸が続いたそうで、苗字が原因との指摘を受け立原にしたそうです。
家紋は丸に橘。
私が調べました秋田藩士立原氏も丸に橘、本性は常陸平氏。橘紋、人気ですね。

そう言えば佐竹氏の国替えの時に動向した侍に立花氏の名前もありました。
この末裔なのか、もとから秋田に居た立花氏なのか・・・謎が深まります。


立原が立花に、立花が立原に、橘が立花に、立原が太刀原に。似たような響きの苗字なので昔の人達は都合によって変えていたのかもしれませんね。
電話帳を見れば分かりますが『立原』が多いのは水戸市飯島町です。
共同墓地を伺いますと全て『橘』の紋。
しかも『根』があります。

後日水戸市飯島町のほぼ全世帯(立原さん)に手紙を送りました。不躾なお願い事にわざわざ返事をくださる親切な方がいらっしゃいました。
ありがとうございます。

その方がおっしゃるには
『飯島町の立原の家紋は、菊座橘、台座橘(根有橘)、久世橘(根無し橘)』が基本のようです。

常陸大宮市野上以外でも『根無しの橘』紋がございました。

そしてご教示頂きました内容から色々推測できます。
常陸大宮市野上の本家かと思われる墓石には『菊座橘』と『久世橘』。
私の江戸中期の本家(ひたちなか市東石川)も大正期の墓石は『久世橘』でして、お隣の地主立原氏は菊座橘でした。

野上も東石川も佐竹氏の国替で帰農しますが、常陸太田市の岡田町、岩手町の『橘』紋一族はどうなのでしょうか?
そして水戸市下大野町の立原さんは全て『菊座橘』でした。
ちなみに『茨城県人名録』の下大野の立原氏によりますと立原城から出て帰農したと書いてありましたが、色々なパターンがありまして、帰農の時期も断定する事は難しいかと思います。
とにかく下大野の立原様方にお手紙したいと思います。
Prev1 2 3 4  →Next