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茨城県の立原氏を趣味で研究しております。
2025.06│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
プロフィール
HN:
爲清
性別:
男性
職業:
型枠工務店の会社員
趣味:
先祖調査、親戚探し、立原氏の文献探し
自己紹介:
趣味で立原氏の歴史、家紋の研究を行っております。
P R
明治時代の物かと思われます。
当時の橘はやはりこのデザインですね。

私が生きている内に橘紋は本来このデザインだと広めたいところですが、逆にどうして京紋(現在の橘)が広がって定着し、京から関東へ、東北へ広がって行ったのか気になります。
今で言う「三つ足橘」「菊座橘」「彦根橘」等々多くの橘紋が江戸紋(と言いますか本来の橘紋だと思います)をベースに作られておりますが、京紋橘のデザインの仲間は「茶の実」紋だけではないでしょうか。
やはり本家本元は江戸紋だと思います。しかし有名な神社やお寺が京紋橘を用いていれば、情報が行き渡る明治時代においては仕方ないのかと思います。ましてや家紋の本、「紋帳」等には明治時代には京紋と江戸紋を混ぜたようなデザインから始まり、昭和初期には完全に京紋橘に変わってました。
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(国立国会図書館より引用)

橘紋は橘氏より始まったと私も思っております。
なので橘氏の橘紋を調べますとやはり「京の橘」(今で言う普通の橘)でもなく「江戸の橘」(今で言う久世橘)でもないものが出てきました。
古い立原家はもとより、江戸時代以前の橘紋は大体こんなもんだったと思われます。
「御前橘」の名前意味を是非知りたいものです。
そもそも植物としての御前橘は橘とはルーツが違うそうで、私も画像を見ましたが御前橘と橘は全く違うと思います。が、しかし、そこに意味がある様にも思えます。落武者の里だけに。

とにかく後日檜枝岐村の役場及び橘家当主の方にお伺いしたいと思います。
(オークションワールド様より引用)

(時遊屋様より引用)

絵銭とは?江戸時代に作られた銭に似せた記念品のような物です、たしか。
家紋を描いた絵銭は他にもいっぱいあります。

見てください、この橘の筋と点の位置を。ど真ん中の大きい穴は家紋のデザインではなく「銭」ゆえの穴です。その穴の上には丸い点。その丸から伸びる四本の筋。やはり江戸時代以前の橘デザインの基本はこれだったと思います。
京紋の橘は茶の実の派生型か、もしくは京橘の派生型が茶の実?
関東や東北においての橘デザインは、実の上部の丸い点から伸びる四本か六本の筋が有るデザインが基本だと思います。
作ってみました。細部はプロの方にお願いしました。
関東、東北地方はこちらの橘紋が多かったはずです。丸が有りますが立原家の最も古い家の一家では丸の無い橘です。明治時代の当主の方は「立花」と記しておりました。これが本当の橘かもしれません。
もし拙ブログを御覧のあなた様が橘紋でしたら、こちらの画像をお使いいただいて問題ありません。どうぞお断りなくご使用ください。
家紋は本来自由なものです。先祖の縛りからか変えてはいけないという意識もありますが、過去の事例をみても一家の節目で変えてるように思います。
私はこのデザインの橘を復活させたいと思います。
現在の紋帳や家紋辞典の橘の名称は間違っています。しかしそれはしかたない事でもあります。
私が生きている間になんとか出来ないでしょうけど、「橘紋にはこういう歴史がある」ということを何とか残したいですね。
家紋が生まれる前から橘は朝廷より尊い物として扱われていたそうです。
やがて平安時代に貴族が家紋の原型的な物を用い始め、鎌倉時代に武家に家紋ブームやって来て鎌倉中期にはどの武家も家紋持っていたそうですね。
ではいつ橘は家紋になったのでしょうか?
橘紋を用いたであろう橘氏の嫡流は跡絶え、分流が江戸時代に梅宮大社を建てたと聞いております。紋は京橘ですが少しデザインが違います。

常陸平氏の真壁氏は鎌倉初期には家を興しており、橘を用いてます。井伊家や久世家より橘を用いたのは古いかもしれません。拙ブログ的に言うと真壁氏は江戸橘です。一般的な表現ですと「丸無し久世橘」となるのでしょうか。しかし昔はこれをただたんに「橘」と云ってました。

で、私の推論で恐縮ですが、橘の元となったデザインは果実の中のデザイン(丸や筋)が無いシンプルな橘がスタートではないでしょうか?
京橘より江戸橘のデザインが恐らくは先でしょう。何故かと言いますと、古い紋帳や古い着物の資料や江戸時代の武鑑を見ても京橘は…今のところ発見できてません。しかし明治になり、あっという間に紋帳は京橘だらけになり、今や橘といったら京橘です。
下記の画像が橘紋の原型ではないかと思います。
(一円玉は近代のものです)

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)
(楽天市場様より引用)

(人文学共同センター様より引用)

(国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)

松平主殿頭様の副紋です。上は江戸時代の絵、江戸橘ですね。下は明治時代の絵、菊橘です。

憶測ですが、大名も一般庶民にもこの現象はよく見られます。

仮説ですが…

明治になり京橘こそ本当の橘紋だよという圧力的なものがあり、京橘は関東に広まり、今までの江戸橘が菊橘に似ているため我が家の紋所はこの紋が本来のデザインじゃね?という推測から明治時代に菊橘が広まった。根が有る無しで家系を分けていた当時の橘紋の家々は、紋帳にも有るように菊橘には菊座橘もあり菊座の台は根にも見えます。そこで庶民は「ああ、我等の家紋は本来はこれに違いない!」と、橘紋の家も、石材屋も、家紋研究者も思ったのではないでしょうか。故に橘紋立原家も明治~昭和にかけて菊橘と菊座橘が多いのかと推測しました。
あとはその推測から石材屋が勝手に彫った可能性もありますね。

茨城県立原家に限りますが、本当にこのパターンは多く、同じ家の家紋が菊橘になったり、江戸橘になったり、京橘になったりしております。
まだまだ研究途中ですし、私なりの解釈ですが分かってきました。
まず、情報源は国立国会図書館デジタルアーカイブや各地の文書館等にて明治時代の紋帳、さらに昔の上級武家の橘紋、家紋辞書等、昔の着物の橘模様を参考にしました。また茨城県各地の立原家の墓石、他名字の橘紋の墓石、埼玉県の墓地等で古い墓を調べました。

それらを考慮しますとやはり昨今のポピュラーな橘デザインは関西から明治時代に伝えられたと思います。元々の橘デザインは真壁氏の橘紋や、久世氏の久世橘、それらから2本筋を無くした橘紋が基本だと思います。その2本筋を無くした橘は秋田藩士立原家も用いており、私の家の本家も墓石に刻まれておりました。また、江戸時代にアレンジが加えられたのが彦根橘でしょう。そもそも丸が有る時点でそんなに古くない家紋です。

関西からの橘紋は茶実紋にそっくりです。どっちが古いか分かりませんが関東(特に常陸)には無かったと思います。
※画像は江戸時代の彦根橘(国立国会図書館より引用)

(ヤフオクより引用)
こんな橘紋もあるんですね。
そういえば水戸市高田の立原家紋もこんな感じでした。しかし五つ鐶ではなく丸でして、足もふにゃふにゃっとしてないです。たまたま似てる紋なのですが、筋の入り方と筋の付け根の丸がまさに江戸橘紋。やはり関東の橘は筋が6本なのでしょう。


(国立国会図書館デジタルより引用)

調べましたところどうやら昔から鹿島神宮にお仕えする家柄のようです。
鹿嶋市史や茨城県人名録によりますと、鹿島神宮関連の立原家は何軒かいらっしゃるそうです。
そこで謎なのがこちらの立原家は橘紋だったからです。鹿嶋市の立原家は元立原村の総本家の立原家々と同じく藤紋だと思ってました。
こんな近い距離で紋の違いが出るのですね。
名字は同じでも家紋が違うと言うのは重要で、①そもそも本姓が違うとか、②高貴な身分の方より家紋を拝領したとか、③落武者で変えた等。

①常陸立原と出雲立原は本姓が違いまして家紋は違います。
②「丸に三盛亀甲花菱」は水戸藩より拝領のようです。ゆえに本姓の違う常陸立原も出雲立原も水戸藩士なりますとこちらの紋になったようです。
そこで謎なのが立原村立原家が「丸に下がり藤」だからです。丸付きなのでそんなに古くない家紋でしょうから、やはり鹿島氏から拝領紋なのでは?と推測しております。
③一軒だけ知ってます。そちらは名字も変えてます。

↓鹿嶋市宮中で拝見いたしました立原家紋所になります。墓石の写真では失礼ですので、私の下手な絵をアップいたしました↓
 
 
(ヤフオクより引用。昔の彦根橘のようです。)
まだまだ分からない事だらけですが、わかる範囲で常陸立原家の橘紋についてまとめてみます。

そもそも家紋はシンプルデザインから始まり、分家により変化していくという事を考慮しますと、800年前の立原家橘紋は真壁氏と同じく「橘」(江戸紋、明治になり久世橘と呼ばれる)であり、600年前頃に南北朝や禅秀の乱が起こり、立原の血筋を残すためか、節操が違うためか、食いぶちのためか分かりませんが、佐竹氏に仕える者、大掾氏に仕える者、今のまま鹿嶋氏に従う者に分かれようです。
そのタイミングで橘紋に「根(足、台)」を加えたのでしょうか?

なんせ明治時代に入り、京都家紋マニア集団により家紋は統一されましたし、立原の総本家筋の家々は水戸藩より三盛亀甲紋を拝領し、立原村の立原家は元々「下がり藤」です。

橘紋で一番古いのはやはり秋田立原家ですね。
子孫の方々にアプローチしたいと思います。
しかし茨城立原ミステリーは常陸岩手町にもあります。なんと南北朝争乱期より前に土着してるようです。その御紋は「丸橘」であり根有りです。

今のところ丸の無い立原氏の家紋は秋田立原家のみです。やはり900年一度も百姓を経験しておらず、ずっと武家だったのは秋田藩士の立原家だけです。
丸が無いのは創成期からの紋所だと思われます。

次回は立原村の立原について書きたいと思います。

間違いなく江戸初期までは武士から農民から町人まで自家の紋はわかっていたはずです。
やはり長い長い江戸時代の間に基本となる立原家の定紋も、分家を繰り返し、また分家間でも違いを出すためにオリジナル橘をデザインしたのかもしれません。
そして家紋革命が明治時代に訪れます。京都の家紋関係を生業とする人達が日本全国の多種多様の家紋をある程度まとめる運動をしたそうです。
そして関東の橘紋の基本中の基本デザインの橘は大名の久世家が用いていたためか、「久世橘」と命名されたようです。
橘紋で一番有名な井伊氏も「彦根橘」等と呼ばれるようになりました。多分ですが、井伊家の家紋は紋帳にもよりますが初期は「江戸橘紋」であり、江戸時代に入り、あの変わった橘になったんだと思います。
とにかく明治以降の茨城県橘紋の立原家は家紋がぐちゃぐちゃです。今はほとんどの家が「京橘」になってしまってますが、ちょっと前の世代の墓石にはかなり迷いのある橘紋が見受けられます。
さてさて、私が追い求めております、900年前の元祖立原家橘紋はいったいどんな家紋だったのでしょうか。
 (どこかのサイト(忘れてしまいました)から引用させていただきます頂法寺、池坊の何かの本)
前回書き間違えた事がありますので訂正させていただきます。
池坊=頂法寺の寺紋を「根無し橘」と書きましたが、家紋研究家丹羽氏の著書「寺紋」には「根なし菊座橘」とあります。すみませんでした。

ある神社は丹羽氏の著書「神紋」には「菊橘」ともあり、やはり現代の「菊座橘」とは関東では「菊橘」、関西では「根なし菊座橘」だったりするのでしょうか。
「菊座橘」にとっての「根」とは台であり、おそらくは花台的な物だったのでしょうか。

そもそも「菊座」は座金の一種であり、家紋の「菊」は座金ではありません。なので橘紋の実に乗っかった菊も座金とは言えません。やはり菊座の「座」は菊橘が乗っかる台としての座ではないでしょうか。
菊=橘に乗っかる花
座=橘の茎の下の台

としたら立原家の家紋の呼び名の「根有橘」はなんなんでしょうか。確かにあれは台というよりは根に見える。そもそも「根」の解釈は立原家に限らず全国の日本人共通の解釈かもしれません。
ゆえに「根なし橘」も立原家に限らず他家も呼んでいるようなので、橘紋の答えは立原家調査だけではダメだと思いました。
菊座=菊の形をした座金…ゆえに「菊座橘」は橘の実の頂点を菊座(座金)にしたデザイン…というのは、私は違うと思います。
「座」は台、花の台だと思います。関東の紋帳で「菊座橘」といえば菊を被せた橘が台の上にある紋です。
有名な三井寺は今で言う「菊座根橘」でして、池坊は今で言う菊座橘を「根無し橘」と云っていたそうです。
と、いうことは本来の菊座橘=
菊と台(座)があるゴージャスな紋

台=座=根の無い菊座橘を「根無し橘」「菊橘」と呼んでいたのかもしれません。

はたして立原一族はなにゆえ「丸に菊座橘」が多いのでしょうか?
次回私の考えを書きたいと思います。
(東京国立国会図書館デジタルコレクションより引用)




「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp
今思えば昨年にお伺いさせていただきました下郷立原家のお家に飾られておりました着物の紋も「江戸橘」でした。墓石は丸に菊座橘でした。

何故、江戸橘のネーミングが「久世橘」なのでしょうか。
これはおそらく戦前の京都の家紋大好きおじさん達のせいです。
京都の家紋大好きおじさん達は全国の多種多様すぎる家紋を整理し、根本のデザインの統一を謀ったようです。
その方々は京都の橘紋デザインを基準と考え、「これこそ絶対正しい家紋図鑑」的な物を出しました。

これにより江戸橘は関東大名の久世家が用いてた替紋の丸橘が家紋カタログにガッチリ記されてしまったようです。

そこで常陸国立原家にとって謎なのが、菊座橘や菊座根橘です。

続く

「国立国会図書館デジタルコレクションより引用」
https://dl.ndl.go.jp/


私が追い求めております自家の紋、「根無しの橘」について進展と発見がありましたので書きたいと思います。

まず今年に入ってから橘の紋様について国立国会図書館のデジタルコレクションで色々調べておりました。
様々な橘が描かれており、私が一番気になる実の筋も多様でした。
きっと平安時代の着物等の模様から橘紋は生まれたのかと思い、今度はグーグルで着物の橘模様を検索いたしましたところ、とある着物屋さんのブログを拝見しました。
そちらに記載されております内容が私にはとてつもない衝撃でありましてとても驚きました。
ノーマル橘紋には「江戸紋」と「京紋」があるそうです。
江戸紋=「久世橘」や真壁氏の定紋のデザインが江戸紋の橘でありまして
京紋=関西の橘寺の寺紋、橘氏の氏神の梅宮大社の神紋、また現代に広く知られておりますごく普通の「橘」及び「丸に橘」が「京紋」のようです。

続く
国立国会図書館様より無断でパクらせていただきました。すみません。
江戸時代以前は橘=立花だったのですね。
 真壁氏の橘紋と久世橘

家紋に丸が付くのは新しいらしく、室町後期や江戸時代だった気がします。
ということは徳川家の大名、久世家より外様大名佐竹氏の家臣、真壁氏の方がこのデザインの橘を使ったのが古いと思われます。
しかし家格が上の久世家の名前が用いられたのでしょうか。

『寺紋』という本がありまして、何年か前に購入いたしました。
改めて読み返すと数年前には気付かなかった事に気付くものですね。

私の考えで恐縮でありますが、そこそこの武家や平民より寺や神社の方が家紋のデザインや呼び名を長い間守っていると思います。

こちらの『寺紋』に記載されております情報から考えますと…
『菊座橘』は『橘』に『菊』と『台(もしくは根)』が加えられたのがデザインのスタートかと思います。三井寺など記載されておりましたが、町中の日蓮宗のお寺の橘紋も『根』がセットだったりします。
頂法寺(六角堂、池坊)は『根なし橘(立花だったっけ?)』と、云うそうです、菊座橘を。ということはそもそも根が有り、それを除いたため根なしなのでしょう。

私的に菊座橘の謎は少し明かされた気になりました。しかし立原家の面倒くさいところは菊座だけでなく『久世橘』がとても多いところです。『根(足)』があったり、皺が少なかったり、丸が無かったりと色々なパターンがあります。
それが本来は菊座であって、そこから久世をあしらったのか、そもそも菊座と久世で派閥が違うのか、ただたんに江戸期、明治期に家の区別のためにデザインを変えたのか。まだまだわかりません。

しかも茨城県立原家の嫡流家と思われます三家がございますが、三家共に『橘』紋ではありません。二家はルーツは違いますが水戸徳川家からの拝領の紋。
一家は千年近く立原村に居たと思われます鹿島氏旧臣の方々。紋は『藤』です。

真壁氏とは常陸国の勝ち組の豪族であり、常陸平氏のスーパーエリートでして、室町中期~後期には佐竹氏に従います、たしか。
その真壁氏を同じ常陸平氏の立原氏が知らないわけありません。しかも真壁氏は常陸平氏の本流中の本流の多気氏から分家したのに対し、立原氏は本流から分家した家の分家の分家のようです。しかも家祖の立原久幹の母親は鹿島成幹の側室か妾でして、庶家であります。

家格が段違いの真壁氏の紋所は『久世橘』のようです。しかも丸無しということはかなり古くから使われているのでしょう。

立原家も久世橘は丸付きで多く使われてます。江戸氏旧臣と思われます立原家は『根無し橘』とも云います。(那珂郡野上、東石川、茨城郡飯富、飯島等)。
大掾氏旧臣(地域的に恐らく家臣、もしくは領民)の立原家も丸に久世橘をあしらっている家が多くあります。

しかし佐竹氏旧臣の家紋には丸が有れ無かれ久世橘は見られません(あったら教えてください)。久世橘の実の皺を2本除いたデザインでしたら、秋田の佐竹旧臣立原家、東石川の立原家(地域的に江戸氏家臣?→後に佐竹氏家臣)があります。

もしかしたら真壁氏に配慮したのでしょうか?
真壁氏より立原氏の方が早くに佐竹家臣となっておりますが、圧倒的に武力、領地、家格が上の真壁氏が軍門に下った時点で、立原は同じ久世橘にアレンジをしたのかもしれません。

後に江戸時代になると同じ村の中の同族でも家を区別するためか、オリジナル橘紋が多く見受けられます。水戸徳川家に召し抱えられ、士分や郷士になると亀甲紋を拝領され、旧家中の旧家や武士一筋の立原家の紋所は本来なんだったのか分からなくなってしまいました。

『丸に三つ足橘』でした。立原家っぽく言えば『根有立花』なのかもしれません。
しかしたった一軒のデータなので、その他の紋を見ないとなんとも言えません。でも近い住所なので恐らくは同じ一族なのかと思われます。
==立原氏の家紋==
☆橘紋☆
※根有=根の有る橘紋の図柄
丸に菊座根橘、丸に三つ足橘、その他色々。
※根無=根の無い橘紋の図柄(普通の橘はこれ)
丸に橘、丸に菊座橘、丸に久世橘、その他色々。
●ひたちなか市東石川=根無
旧家は二軒。「根無しの橘」と呼ぶ家も有ります。
江戸氏、佐竹氏に仕え後に帰農。
●秋田県士族立原家=根無
佐竹家旧臣。立原家の中では最初に佐竹家に仕えたとされております。
紋は「立花」と云います。丸の無い橘紋は私が知る限りこちらの家のみ。橘紋をあしらう立原家ではおそらく最も古いと思われます。
●ひたちなか市津田=根無
●常陸太田市岡田町=根無
佐竹氏家臣。後に百姓、村役人等。
●常陸太田市亀作町=根無
岡田町立原家と同族かと思われます。
●常陸大宮市岩手町=根有
700年以上前から土着とのことなので、立原城を離れ、村を開拓した立原家では最も古い。
幟(今で云う鯉のぼり)を上げない風習のことから落武者の可能性有り。
●水戸市鯉淵=根無
●水戸市高田=根有(根が二本)
●水戸市飯島=根有、根無
「根無し橘」「根有橘」と云います。
最も多くの立原姓が居る地域です。
●水戸市飯富=根無 
●茨城町長岡=根有
●小美玉市柴高=根有、根無
●笠間市下郷=根無
●常陸大宮市野上=根無
佐竹氏に仕え、秋田転封時に帰農。
紋は「丸立花」と云います。「根無しの橘」とも云うそうです。
●水戸市下大野=根無
旧家が数件居りまして、大本はルーツの違う二軒かと思われます。
顕幹流立原家(オリジナル橘紋)と右京介流立原家(丸に菊座橘紋)が居ります。どちらも江戸氏に仕え、後に帰農。名主、郷士格、村役人等を勤めます。
☆亀甲紋☆
※図柄は丸に三盛亀甲に花菱(花角?)もしくは花、平、東
※水戸徳川家の拝領の紋。江戸時代の水戸藩、士分の一族、郷士の一族等。
●立原翠軒の末裔、その本家筋一族
顕幹流分家、江戸氏に仕え後に町人や水戸藩士に。
図柄は平、東。
水戸市在住。
●顕幹流嫡家立原氏
佐竹氏に仕え後に庄屋、山横目、郷士等を勤めます。
図柄は花菱。
水戸市在住。
●出雲からの立原家
尼子氏家臣、後に水戸藩士。本姓は源氏(茨城の立原氏はほとんど平氏)。
水戸市在住。
●日立市諏訪町
図柄は平、東。
●常陸大宮市
顕幹流。佐竹氏に仕え後に村役人等。
図柄は花菱。
●茨城町小幡
久幹流嫡家の可能性有。立原城を出た後、江戸氏に仕え、後に水戸藩郷士になる。私が知る限りでは大掾系図の立原氏の末裔はこちらの家のみ。
図柄は花菱。
●水戸市栗崎
顕幹流分家、江戸氏に仕え、栗崎地域の領主一族。
図柄は花菱。
☆藤紋☆
※丸に下がり藤、丸に上がり藤等
●鹿嶋市立原地区
丸に下がり藤、丸に上がり藤
代々鹿島氏家臣。禅秀の乱(1416)において郷土史に『立原地区の所領は没収』とあるのはその頃の立原城主は大掾氏と同じく上杉禅秀についた立原詮幹であり、藤紋立原家は立原城(館や村)に残ったと思われます。
所領没収となった詮幹の子孫は小幡村に土着して江戸氏の家臣になったと思われます。
禅秀の乱以前の立原地区の大本の支配者は行方氏、以後は烟田氏かと思われます。
天正期に佐竹氏に支配される前は烟田氏なのか島崎氏なのか鹿島氏なのか、研究不足のためまだ分かりません。
●鹿嶋市棚木
丸に下がり藤
●水戸市鯉淵町
丸に上がり藤
☆丸に剣方喰☆
●潮来市に多数
戦国時代の地理で考えると島崎氏の家臣かもしれません。
☆丸に桜☆
●潮来市に数件
同じく島崎氏の家臣だったのでしょうか。
☆二つ巴☆
●行方市麻生に多数
地理的に考えると麻生氏の家臣だったのかもしれませんが、もしくは後の支配者島崎氏の家臣というのも考えられます。
●常陸大宮市辰ノ口
☆丸に茗荷☆
☆丸に梅☆
●共に神栖市に多数
立原地区にも鹿島氏宗家にも距離的に近く、鹿島氏の領地であることから鹿島氏の旧臣立原家の分家かもしれません。
☆丸に鷹の羽☆
●埼玉県吉川市
旧家有り。まだ全てが謎です。後日お伺いしたいと思います。
おそらく『菊座根橘』かと推測しております。

もしくは『丸に菊座橘』、根が無い普通の菊座橘紋です。

しかしわざわざ『根無橘』と言うんですから本家には『根』があったのでしょう。

断言しますのも理由がありまして、大掾氏や江戸氏、後に佐竹氏が納めた領地の立原氏旧家の江戸時代中期から後期の墓石には『菊座根橘』があしらわれているからです。(江戸初期以前は農民、中下級武家に墓石はありませんでした。)

その墓石の後の墓石には『三つ足橘』になったり『久世橘』になったり『菊座橘』になったりしております。
その家からの分家かと思われる墓石には、ただの『丸に橘』になってしまってる家もあります。

佐竹家臣の立原家紋所の表記は『立花』です。菊=花?

江戸時代になって、同じ村で同族が増え、家紋を少し変える事はよくあるそうで、昭和になり、更に家紋はありふれたデザインに変わって行ったというところでしょうか。

世間でよく言われる『農民に名字は無い』とかは誤りです。
立原家に限ったことではありますが、農民は先祖の由緒は忘れてしまう家もありますが、名字と家紋は歴然と伝えております。
菊座橘をあしらう立原家は佐竹氏、江戸氏、大掾氏の支配した地域に見受けられます。
とある立原家系図には南北朝期に立原城を出て大掾氏家臣になり、何代かして江戸氏家臣になり、途中佐竹氏の家臣になった分家もあり、天正期に落武者になり、後に村役人になり、現代に至る。
この超素晴らしい系図から推測するに、菊座橘紋立原家はこの家系図の範囲にピッタリおさまります。(途中沢山の分家もあったことでしょう)
すなわちやはり古い立原家の本来の家紋は橘かと思います。しかも菊座橘や久世橘に似た、型に修まらない様な橘紋が多数見受けられます。
立原城最後の城主、立原詮幹も橘紋だったのでしょう、多分。しかし私が知る限り詮幹の子孫は一家しか確認できませんでした。しかも家紋は三盛亀甲。三盛亀甲は水戸徳川家からの賜り紋かもしれません。まだ裏付けはしておりませんが。

ちなみに憶測ですが藤紋は鹿島氏からの賜り紋ではないかと妄想しております。
五、六年かけて仕事の合間に、家族に内緒で茨城県各地の立原家墓地を参拝及び研究してまいりました。

圧倒的に橘紋が多いです。
江戸期のエリート農家や戦国時代のエリート侍の家紋は『三盛亀甲』系の家紋。

立原城や立原村にとどまった一族は『藤』。水戸市におそらく江戸氏旧臣の一族も藤でした。(←まだコンタクトをとっておりません)

鹿島より南部には梅や茗荷などの一族(まだコンタクトとっておりません)がおりまして、茨城県北部(日立市より上)は立原の人口が少なく、私の家から遠いので未調査です。

そして橘紋。
立原家橘紋に共通していることは『菊座橘』『久世橘』『三つ足橘』が本来であると考えてました。
ここからは妄想なのですが、旧家の古い墓石を拝見致しましたところ、家紋辞書に無い橘紋が多数ありました。
それが江戸期に他家と区別するため変えたのか、室町期に分家して主君を変えた時にデザインしたのかわかりません。
確実に言えるのは時が経つにつれて家紋デザインが変化したということは無いと思います。完全に意図的に変えてます。
そのオリジナル家紋が子孫によって家紋辞書に載ってるデザイン通りに変えられていっております。
立原城及び立原村を最初に出て行った一族(私が知る限りですが)はその地域の草分けだとネットで見ました。750年以上前からの土着で落武者だそうです。
源平なのか南北朝なのか、その中間の頃なのかわかりませんが、私が調べた限りでは最初の分家+遠方へ土着です。
しかも古い墓石の家紋は完全オリジナル橘紋。江戸時代まではそのデザインだったのかもしれません。

もしかしたら立原氏はそもそも全て橘紋だったじゃないかと思いました。三つ盛亀甲一族や藤一族はプライドや地位によって定紋を変え、負け組立原家はそのまま『立原紋』らしきものを使い続け、時が経つにつれデザインを普通のものに変えていったのでしょうか?


当家の伝承紋『根無橘』は江戸中期分家した当初は同じ村や近隣の村に『根有橘』の立原一族はいませんでした。ということは戦国期、もしかしたら鎌倉期に根有と根無で分家して今日まで伝わってきたのでしょうか。
ちなみに当家の家紋も伝わっているデザインは『丸に橘』ですが、江戸期の本家の墓石を拝見しますと、オリジナル橘紋でした?

次回は立原家『菊座橘』を書こうかと思います。


仮説で恐縮ですが、自家の紋を『立花』と称した文献と由緒書きを見た事があります。
昔の人達は読みが同じなら漢字は適当に当ててる…なんてパターンもありますがどうやらこの件に関しましてはそうじゃない気がします。


そもそも『根なし』とは『根のある家紋』の対比ではないかと家紋研究家の方からご教示頂きました。それから調べていくうちに立原家に根のある橘紋が沢山あることに気付きました。
憶測ですが、一般的な呼び名の『三つ足橘』(立原家的に言えば根有橘)のデザインは菊座橘に似ていて、橘の実というか『花』に見せてる気がします。故に水戸市飯島町の『根なし橘』は菊座橘によく似た『久世橘』です。
常陸大宮市野上の『根なし橘』と伺いました家の紋は『丸に橘』でしたが、その方の先祖親戚の墓石には菊座と久世を混ぜたようなオリジナル家紋が見受けられました。

ひたちなか市外野の立原家は本家筋が二家ありまして、一家は菊座橘、もう一家は『根なしの橘』、私の10代前の本家でして久世橘とも丸に橘ともいえないオリジナルでした。

まだまだ結論は出せませんが仮説として、橘紋立原家は佐竹氏家臣は根有、根なし一族で、菊座は大掾氏、江戸氏家臣なのかと今のところ思います。…たぶん違いますが


橘紋立原氏で小美玉市にお住まいの方々にはまだお伺いしておりません。墓地に参拝、家紋を拝見いたしましたところ『久世橘』『菊座橘』『三つ足橘』『三つ足橘菊座バージョン』等、水戸市飯島町と同じく種類豊富かつ、旧家揃いです。

元郷士の家柄の立原様(三盛亀甲の紋、旧家中の旧家、名家中の名家)の保有する資料に立花紋立原家の資料があり、小美玉市近辺の領地を佐竹氏より賜ったとの記載がありました。
これはとても期待できますね。


仮説まとめ


オーソドックスな『丸に橘』という紋は昔の立原家にはなかった?!
鎌倉期の立原家が立原城を出て行くとき(もしくは出て行った一族)は根有橘と根なし橘を定紋としていた?!

こんなところでしょうか?
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